自己発注としてのアート

写真家山崎博がかつて「自己発注」ということを述べていた。アサインメントの「仕事」は発注者が企画立案し、受注者はあてがわれて請負い、指示に従って仕上げるものだが、みずからことを起こしてみずからに依頼する、発注者でありながら同時に受注者でもある、ということだったと思う。
当初の趣旨では、自身の制作にのみ限定して語られていたのか、広く一般の制作活動にあてはまる姿勢として提唱されたのかはっきりとは思い出せないのだが、山崎氏の意図を離れて広く捉えるなら、この自己発注型の制作態度は、モダンアート全般に通じる姿勢と解釈することも可能だろう。近世までは依頼を受けて対価が確保された上での制作だったのが、近代以降は自発的にとりくまれ、完成後に有形無形の報酬を求めて提示される。かつて他人を満足させるために制作して対価を得ていたが、みずからの課題を立ててそれを成就させるようになる、つまり自分をまず満足させるために制作するようになる。
委嘱制作でも、ロスコのシーグラム壁画のような、発注者と受注者の齟齬が往々にして発生する。そこで発注者が受注者を従わせるのが通常の受発注関係だが、受注者の意志が通ってしまうなら、もはやそれは通常の商慣行での受注者とはいえなくなる。他からきっかけを与えられる場合であっても、受注者が発注者の役割を飲みこんでしまう、自己発注的傾向を帯びた場合もあるといえる。
このように、モダンアートとは自己発注型のアートである、と考えてみる。多人数の共作だと問題が複雑になるが、単独での制作は自己発注である。
いわゆるモダニズムの典型とも言うべき「芸術の自律性・純粋性・絶対性」といった概念も、自己完結的な自己発注型制作態度の帰結とみなすことができるのではないか。
一時期はパブリックアートのような公共事業型の請負制作物が幅を利かせていたが、おそらくアートの正史には登録されず、アブク景気の徒花として、朽ち果てるのと同時に忘却されることになっているのが既定路線のようだ。坂本龍一が、現在世の中にあるほとんどの音楽はCM曲のような機会音楽だと語っていたが、機会芸術はハイアートではないとみなされる。ハイアートであるとのお墨付きを得たアーティストが他者から発注を受ける場合、社会的地位や知名度に応じた自由裁量権が与えられる。一般社会での発注とは発注者が何をやりたいかが問題であって、受注者のやりたいことなど問題ではないが、受注者がアーティストの場合、受注者が何をやりたいか、何に意欲があるかが問われる。アーティストとは自分がやりたいことをやることが保証された存在である、というわけだ。われわれはモダニズム的な自律性幻想に今なおとらわれている。
しかし、自分だけを頼りにやってればいずれ絞りつくして行きづまる。最初の勢いがやがて衰え、運よく大御所と認められるころには抜殻となってしまうのは、自己発注型制作態度の限界なのではないだろうか。
アートとは自己発注であるとある席でしゃべったら、1人の画家から反発を食らった。自分は仕事も受けているからわかるが、制作は発注・受注のような単純なものではない、まったく違う、と。発注→受注といった単線的な構図ではなく、フィードバックや、発注者と受注者との2者を立てた上でその2者のやりとりに還元するといったことができないような練り上げや実際の制作との往還運動も含めた総体として捉えて、なおかつ、誰に命じられて制作するか、という視点で考えるなら、他者発注か自己発注かという問いの設定は有効だと思うのだが、ことば足らずなのもあって通じなかった。
あとから考えるに、「違う」と彼は思っているのだろう。自分がやっているのは、そんな銭稼ぎのための請負仕事とは違う、もっと高邁だ、賃労働なんぞと一緒にするな、と。「芸術の自律性・純粋性・絶対性」をいまだに信じているのだろう。
アートとは、誰にも媚びずアーティスト自身にのみ従ってうみだされる、自己発注の産物ということらしい。少なくとも近代以降の、ありがたがられ崇め奉られるアートはたいていそう。そんなたそがれた代物はもうよかろう。他者から受注する、アートならざるもの、これがアートという幻想の檻から救ってくれるならありがたいことではないか。あとは、受注したものを発注者の望みどおりに仕上げるということのなかにどのような価値を発見できるか、ここにかかっている。