元来写真は横位置なのか縦位置なのか。
135SLRにしろ6X7や6x9にしろ、あるいは一般的なデジタルカメラにしろ、横位置撮影を基本として設計されており、自然に構えれば横位置で写ることから、写真とはもともと横位置であるとふだん見なされているようだ。webでも横位置画像画像のほうが多い。しかし135フィルムのハーフ判ではふつうに構えると縦位置になるし、6X9判の半裁フォーマットであるセミ判でもブロニカなどのレンジファインダー式では縦位置になる。セミスプリングカメラでも、実使用に際しては横位置撮影が考慮された構造になっていても、軍艦部が上に来るような、デザイン上想定されたと思われる本来の置き方にすると縦位置となる。ペンタ645などフィルム給走を縦送りにして横位置撮影を優先させたセミ判というのは最近出てきたものである。
人工光源が普及して引き伸ばしが一般的に可能になって以降、カメラの可搬性を上げるためにフォーマットはどんどん小さくなっていき、シートフィルムからロールフィルムへと移行していったが、それでも同じ条件の中で鮮鋭度を上げるために、ロールフィルムの巻き取り方向を画面長辺とすることで画面面積を稼いでいた。135フィルムではハーフ判やかつてあったという54枚撮りのスクエア判ではなくライカ判がスタンダードであり、120フィルムでは規格当初の標準であるいわゆるブローニー判が6X9判であったのはそういった理由による。
つまり、フィルムの規格とフォーマット、機構上の制約を優先してカメラを設計したところ結果としてそれぞれ横位置が使いやすいようにできあがったり縦位置主体のボディになったりしたというだけのことであって、縦位置か横位置かという理念が先にあったのではない、そう考えてよさそうだ。
ビューカメラや6x7以上の中判カメラでは縦横差し替え式やレボルビングバックが一般的であり、横位置と縦位置とのあいだに仕様上の格差はない。ビューカメラの始祖たる暗箱もたいてい縦横差し替えであったろう。カメラの形態としては、もともと横でも縦でもどっちでもよかったのかもしれない。
では、そもそもなぜ長方形である必要があったのか。正方形では駄目だったのか。6X6の当初の用途は、横位置縦位置兼用のフォーマットであったとされている。いわば妥協的フォーマット設定であって、正方形自体が積極的に採用されたのではない。スクエアを写真にとりいれるというのははなから考慮の埒外だったのだ。ここで支配的なのは、撮影段階の事情ではなく、印画紙、あるいは紙面といった最終提示媒体の条件のほうである。印画紙が長方形だから、そして雑誌や新聞が長方形だから、正方形では無駄が出るので長方形のほうがなじみがいい。ならばなぜ印画紙や印刷物が長方形なのかという疑問が当然浮かんでくるわけだが、これは全紙を裁ったり折ったりしていく工程上の理由で説明される。つまるところすべてが工業製品の各段階であって、みな標準的規格のほうから規定されているということである。
それならば横か縦かで統一されていてもよさそうなものだ。横でも縦でもどっちでもいいから双方が混在していたのではなく、両方の需要があってそのいずれにも応えようとするうちに収拾がつかなくなってしまったと見たほうがいいのではないか。横位置か縦位置かというのは作画する側からすればフレームを決めるための最初の条件であるから、フォーマットを策定する立場の人間がこれを「どちらでもいい」ものと考えていたとは思えない。印刷物を見ていくと原則として縦長であるし、印画紙のパッケージも縦位置で印刷されている。ところが引き伸ばし機のネガキャリアやイーゼルを見ても横位置用にできている。ロールフィルムのネガシートを見ても横位置主体で作られたものが多い。だがシートフィルムの箱は縦位置、フィルムの銘柄も縦位置方向で印字されており、フィルムホルダも縦位置設計である。技術領域が拡張していく中で辻褄が合わなくなってしまったのではないか。
映画のスクリーンやその比率を受けついたTVが横長なのは、人間の視野が横に広いからだと説明される。ページものの印刷物が縦長なのは、見開き状態で横長になることで本来横長であるとも了解されよう。しかしペラもののポスター類までが縦長なのはどうしてなのか。
もう一つの写真の先行者である絵画について考えてみる。横位置か縦位置かというのは、ランドスケープかポートレイトかという問題になる。画像関連のアプリケーションではHorizontalとかVerticalのかわりにLandscape/Portlaitの語が使われており、この語義においてはほぼ同義語として用いられている。そう、ここで縷々考えてきたのは、写真とは元来人像のための道具なのか風景を写すための手段なのか、ということであったのだ。もちろん肖像写真であっても集合写真ならば横位置になるし、縦位置の風景写真もいくらでもあるのだが、古来より風景は横位置、肖像は縦位置という用法が確立していたし、今なお世間ではそれが掟として機能しているかの節がある。新宿のメーカー系ギャラリーでのアマチュアの風景写真のつどいや営業写真館の発表会といった、世の中での写真の使われかたの典型を見ることができる場所では、そのことが事実として確認できる。風景写真では見事に横位置で揃っているし、肖像写真において横位置は許されない、といった無言の圧力さえ漂っている。
風景と人物ではまったく条件が違う。まず輝度レンジがかけはなれている。風景の中に人物を配するというシーンはままあるが、いずれかに露出を最適化しなければならない。残りは程度の差はあれ犠牲になる。次にピント位置が違う。描写やコントラスト傾向、照明条件でも一方のベストは他方には好ましくないことが多い。写真技術の部分を見ていくと、もっとも普及しているデイライトタイプのカラーフィルムのカラーバランスは戸外の風景写真に最適化されており、撮影レンズは通常無限遠を基準に設計されているといったように、もちろん屋内スタジオ用とかポートレイト用の製品もあるにはあるのだが、一般的な写真の対象として想定されているのは太陽光の下の無限遠の風景であると考えられる。しかし風景の輝度レンジは写真印画紙に対しては広すぎる。
写真技術上、横位置と縦位置との、ランドスケープとポートレイトとの相剋が繰りひろげられてきて、今は一つ所に収まっているものの、なおもあちこちにその火種が残っているのではないか。写真における「生きている化石」というべきシートフィルムで縦位置用の仕様が残っているのは、ずっと写場で使われてきた肖像写真用途の名残であろうし、かつて写真が贅沢品であった時代には、一般になじみのある唯一の写真の用途とは肖像であった。それは自分や身内が実際に写されるという関係であり、見も知らない他人が撮影してきた辺境の風景写真などとうてい及びもつかない意味をもっていた。その点で写真産業の中心市場は肖像写真であった。その後スタジオでの肖像写真撮影という習慣は廃れていき、誰もがみずから撮影するようになるのだが、そこでも主要な関心事は人間である。それは自分や身内だけではない。ポスターなど巷間にあふれかえる印刷物の大半には人間が写っている。
世のひとは写真に人の顔を要求する。写真とは人間を写すものだ、と言われたことが数回あるし、畠山直哉だったか、みんな勝手に見たいものを望み、人を撮れだとか言ってくると語っていた。写真の媒質は人間表現にあるとグリンバーグが述べるのも、結局のところは彼の写真に関する「taste」が人間に向いていたというだけのことにすぎない。ところが一方で、写真技術を構成する光学・機械工学・写真化学・電子工学・システムエンジニアリングなどの要素に通じた人たち、いわば写真業界のテクノクラートたちには、えてしてミザントロープ的傾向が見てとれる。そうした階層の技術者がみずからの経験を元にカメラを設計したら、世の需要に反して人物ではなく風景撮影を念頭に置いていたとしても不思議ではない。一度世に広まったフォーマットの拘束力は強い。最初に策定されたフォーマットは、その仕様に合理的とはいえない部分があったり不都合があったにしても、いったん動き出して普及してしまうと、そうそうたやすく変更はきかなくなる。ASCIIキーボード配列がいい例。写真工程のおのおのの段階で横位置が標準であったり縦位置向きであったりするのは、それぞれの段階で、さまざまな発案者の意図と各業界の必要が交錯しながら、肖像用途が優先されたり風景用途に重点化されたりしてきた過程の集積ではないだろうか。
カメラやレンズを好んだり、暗室作業をよくし、プリントのトーンをうるさくいうような人物の資質は、社交好きとは程遠いことが多い。人気のない日中の都内街中の風景というのは特殊な状況のはずだが、そのようなスナップ写真を写真展で見かける機会は多い。今や風景なる語を容易に用いるのもはばかられるのだが、嫌人的写真の系譜というものが確かにあり、人物対風景という図式が多少とも有効であるのならば、人間を離れてなおも対象を求めるその先にあるものを風景と呼んでもいいのかもしれない。そこではむろん風景は横位置といった古来のルールは通用しないのだが、そこで往々にして見られる冷ややかさには、メカやレンズといった写真というメディウムが背後に持つ技術体系の反映がうかがえるような気がしてならない。