つづき。
考えてみれば今回の写真も、写真における線遠近法という規範ないし文脈に依存していたのだった。それらを離れてはほとんどなりたちそうもない。そのあたりを探るために、写真をまったく見たことのない人がいて、彼らが最初に目にした写真が今回の写真だったとしたら、その目にこれらの写真はどう映るか、と考えてみる。まず、写真を知らないことに加えて、対象となっている建築物を見たことがなかったり、さらには箱型の近代的建築になじんでいない文化圏の人にとっては、これらの写真を了解するとっかかりの見つけようがないかもしれない。しかし、写真の文化的堆積との交わりはないが、このような建築物に対しては視覚的蓄積をもつ、というような人を想定できるとしたら、彼らにはどのように見えるだろうか。われわれがこれらの写真を見て抱く違和感が、いつも見慣れている建築物の写真との比較対照に由来するのであれば、われわれがこの写真に認める奇妙さ加減は彼らにとっては意味をなさないだろう。しかし、われわれがこれらの写真を見るにあたって引き合いに出している視覚的背景が、写真ではなく肉眼による視覚経験であり、これらの写真を日頃直接見ている建築物との隔たりから異様であると判断しているとするならば、われわれの違和感を彼らも共有することができるはずである。
線遠近法は平面上の再現においてはじめて成立する。われわれの網膜という球体に投影される結像は線遠近法に準拠してはいないし、その結像を知覚的に再構成したわれわれの空間認識にも線遠近法は適用されない。そのことは、広角レンズを装着した一眼レフカメラのファインダー像なりビューカメラのピントガラス上の結像とわれわれの肉眼との視野周辺部のパースの変化を比較してみれば理解される。視野を左右に振った場合の視野周辺部の物体に着目してみると、広角レンズの結像では、周辺に行くほど大きくなり、各部の比率に差が生じてデフォルメされて見えるが、肉眼では、眼球のみを動かしても頭部全体を振っても、視野内の任意の物体の大きさも形状も一定で変わらない。空間の直線的構造が連続している。少なくともそのように処理されている。線遠近法は写真や線遠近法に基づく再現的絵画を見ることで学習され、そのような世界のとらえかたが体得されるのであって、写真や線遠近法的絵画を見たことのない人には把握できない認識的枠組である。そして、そのような人には線遠近法的再現との対照を通じて今回の写真を奇妙であると感じることはできないであろう。
しかし、何の根拠もない想像でしかないのだが、これまでまったく写真を見てこなかった人にとっても、今回の写真と日常的視覚経験との齟齬は感じられるのではないだろうか。建物を見上げて、八の字型に下が広がっていて上は狭まっていると明確に認識するようになるのは写真を通じて学習した線遠近法的空間把握に基づくのかもしれないが、そのようにはっきり意識はしていなくても、やはり素朴な知覚的世界とは極端にかけ離れたこのような再現には違和感を抱くのではないか。そうであるかどうかを弁別する手立ては思い当たらないけれど、仮にそうだとするなら、これらの写真は、写真という形式の中での線遠近法的規範に従属しているわけではないということになる。空間を平面上に再現するための透視図法的線遠近法ではなく、奥行きのある空間をわれわれが知覚するときに依拠するような、その先の遠近法、われわれの視覚経験全体を基礎づける原初的な遠近法というようなものがあるのだとしたら、それに対してのみ従属していると考えられるかもしれない。それは世界をわれわれが見るということそのものが規範になっているというのとほとんど同義ではないだろうか。今回の個々の写真は、近代的建築一般であったり、あるいはフジ*テレビや日本*武道*館といった個々の建築物という文脈には依存しているかもしれない。しかしそういった建築を見たことがない人々に対しては、その人々が見たことのある対象を撮影して見せれば、奇妙だと捉えるということになる。写真をいっさい見たことがなく、これらの建築を含みこむ文化との接点をもたない人に対してさえも、やりようによっては訴える可能性があるわけだ。つまり、それぞれのローカルな建築様式にも、現実のそれぞれの写真はともかく、方法としては、あるいは理念としては依存していないと見なすことができる。
そうだとすれば、これらは写真文化一般が形成する文脈からは自由であり、また建築物という文脈にも依存していないと考えうる。ただ、奥行き知覚の構造と、対象を再現するという一般の写真固有の規範にのみ従属している。
これを検証するのは困難だが、写真に空間認識を植えつけられる前の子供の反応を見れば幾分なりとも確認できるかもしれない。だれか子供を連れてきてくれないものか。ことばが話せて、なるべく幼くて、できれば地方で育っていて、画像の洪水にあまりさらされていないような。
文脈の呪縛から離脱したい、という意識はロマン主義に連なるのかもしれない。一過性の流行や時事的背景に乗っかるのではなく、永続的価値を希求するというのはロマン主義の精神そのものである。一方で、他との関係性を断ち自律的価値を得ようとするのはモダニズム的態度であろう。いずれにせよ世の中の文脈に寄り添うかのような今どき主流の傾向とは程遠いアナクロニズムである。このような考えすべてが社会的文脈の影響下に形成されているにすぎない、という主張もあるだろう。しかし明らかに形式的関心主導の写真であり、度合の問題でいえば文脈の関与が低いには違いない。孤立無援というのは文脈の干渉に毒されないという意味では願ったりかなったりだ。ずっと孤立していたからこそ、このような他との交渉を拒む方途をとったのかもしれないが。ともあれ今さら文脈に頼った写真をできるわけもないし、やるつもりもない。このまま茫漠たる曠野をあてどなくさすらう以外にない。
ともあれ、あと3日。ここをご覧のかたはぜひいらしてください。きっとこの日誌よりもおもしろいはずです。写真であれ、本人であれ。