新宿発の高速バス。首都高で赤坂を経由し湾岸を走る。西へ行く高速バスは初めてだが、これはおもしろい。一般の乗用車で首都高を通る機会もそうそうないのだが、バスは一般車よりも車高が高くフェンスがある道でも風景が遠くまで見える。そして、映画で自動車からの眺めが多用され、ロードムーヴィなるジャンルまである理由に気づいた。
それはきっと、絵画においてずっと昔からあるポートレイトとランドスケープの2大分野が映画においても生きながらえていたということなのだ。映画というジャンルではだいぶ以前に、ある程度の尺を持ちこたえさせるためには物語に頼るしかないということが明白になっていた。そうすると人像かその代替品の登場となる。ところが人像ばかりでは満足できない人々が存在する。風景だって必要だ。しかし、映画でそこらの風景をただ延々と写してもまったくおもしろくもなんともない。静止画の風景と大差ない。それでも固定ショットの風景を長々まわしつづけるロメールみたいなのも出るわけだが、まことにかったるい。だったら写真でいいだろう。人物なら固定ショットでもしゃべるなり動くなりどうとでも変化をつけられるが、眼前に広がる風景となるとなかなかそうもいかない。変化があっても概して緩慢であるか、全画面に占める変化の割合が少ないことが多い。風景に映画ならではの動きを与えるにはどうするか。対象の動きを期待するのではなく、視点そのものを移動させればいいのだ。それも歩行のような低速よりも、ある程度の速さで移動したほうがいい。そういうわけで車中からのショットが頻用されるようになったのではないか。映画というジャンルにあって、人像による寡占を許さず、風景画という古来よりある視覚再現形式の息を吹き込むための方便だったということだ。
それにしてもシネフィルは人間嫌いが多いのにどうしてああもスクリーン上の人像を見たがるのか不思議でしょうがない。われわれよりは救いのある人間嫌いなんだろうか。
で、だ。撮影しなくても機材背負って移動しただけでなんとなく満たされるのもそのへんだろう。目に入る風景に変化がないと飽きる。幼児はほっとくとむずかって視覚的刺激を与えると喜ぶし、子どもは電車に乗れば車窓の風景を見たがる。風景が動くだけでわれわれの得る視覚情報ははるかに豊かになる。正直静止画では太刀打ちできない。とりわけ、バスに揺られながらじかに見るすぐ近くの風景の移り行きはたいへんおもしろい。これに単純なおもしろさや爽快感といった次元で並び立つことのできる写真やら映像はまずあるまい。
早朝名古屋着。だんだん雲が広がっていく。大須観音から近隣の寺を回る。西本願寺別院は築地本願寺を書割にしたような珍妙な建物。あとで見た熊谷守一になぜか結びついてしまう。このへんはどうしても背後にビルが入る。中部電力千代田ビルのアンテナ塔は色は地味だが珍しい。ほか地下鉄を行ったり来たり。熱田神宮を確認と思ったが時間が足りず。
栄で目星をつけた店がわからなくなり1時間以上探すうちに迷ってしまう。面倒になり喉もいい加減ガラガラなので酒屋で缶ビール1L買って寒空の下あける。煤け加減が分相応。