特快晴だが透明度低い。遠い空が白い。でもとにかく出発。
12時頃八景島着。丘の上の幸福の鐘だかなんだかそんな金属製のカゴへ。植えこみに囲まれているが四方に道が出ていてそこからなら引きがとれるし8角の柱も正面に来る。南南西あたりに伸びる道にセット。完全順光の少し手前からはじめてポラ切り完全順光で2枚45s。しかし対象がいびつなのか傾いている。ここからドツボコース。結局ポラ9枚も使ってもうまくいかないまま14時頃までかかって縦位置6枚使い切る。遠い空が濁ってくるが、どのみち白く飛ぶんだから大勢に影響ない。上天はまずまず青い。
ローラーコースターにはまだ早いので島内をぐるっと回るが他に目を惹くものはなし。15時半頃からローラーコースターのレールに向けセット。コースターが走っている箇所よりだいぶ先のレールがすでにガタピシいってるのがはためからもこわい。なるべく北側から構えたほうが造形としては都合がいいのだが、その面には光がほとんどあたらない。西側からなら光があたりもっと映えるのだが円筒状の形状が完結しない。どうする。かたちをとるかか光をとるか。これはつまり対象か条件かということだ。条件から独立した対象を考えること、対象とは別個にその条件を措定すること、に意味があるか。われわれの立場からすれば、充分にある。どっちを優先するかは結果に与える影響によるけれども、最終的には対象を優先させる。対象あっての写真なのだ。条件はなんとでもなる。そこで北から。しかし暗すぎる。日没前まで粘るが光が回ってこない。ポラ1枚ですませるつもりがピングラが暗くてまったく見当がつかず、ポラ3枚も使ってしまう。計12枚か。16時半頃から露光、EV14.5程度、3mで2枚。これだけ露光秒時が長いとコースターが来るタイミングを避けるのが難しい。夏至近くにまた行くつもりだが、北側まで回ってくるとはあまり期待できない。ポラを見る限りうまくいきそうもない。
それは光線条件の問題ではなく、またこの対象が所期の要素を満たしていないというより、この撮影様式の限界なのではないかという気がする。逆遠近法と呼んではいるが、一点逆透視図法、つまり一軸のみが逆遠近法になっているだけでしかない。それも線遠近法の極端な運用から導かれる、線遠近法をつきつめた結果の破綻なのであって、「線遠近法という世界再現様式とは別の様式」とまで称するには無理があるのではないか。それはそれとして、相応の視覚上の効果が得られてさえいるならば、能書きはなんとでもひねり出せるのだが、所詮は線遠近法の枠内に、視覚的効果上も、とどまるものでしかないのかもしれない。
ローラーコースターから降りてきたばかりらしい客が「写真撮ってる」などと後ろ指さしてくる。盗撮してると非難しているのだろうか。これだけあけっぴろげにでかでかと三脚おったてて店開きしてても盗撮呼ばわりされるものかね。冠布をかぶって顔が隠れているからのぞき見のようにとられるのだろうか。窃視がどうしたとか視線の暴力がこうしたとかいう二昔前の紋切り型な議論にはまったく関心はないが。そういえばしばらく前の猫を償うに猫をもってせよにこんな記事があった。

 こないだどこかで「窃視の欲望」がどうとかいう論文を見て、げえまたかと思った。美術とか都市論とかジェンダー論とかで、この文字を見るだけで、まだやっているのかとうんざりする。十年一日の如しで、なんでこう誰も彼も同じことを言うのだろう。二言目には「パノプティコン」とか言い出す奴も昔はいたし、ある種の学問ってのは病弱で、すぐにこの「誰もが同じことを言う病」に罹るのだ。この手の論文を読んでも、単にああでもないこうでもないと言っているだけで「私は流行の窃視について論じています」という以上のことは何もないのだよね。

そうそう。なぜに視覚芸術関連の論者には猫猫先生のような戦闘能力の高い反骨の異才がいないのだろうか。いないわけではない。でもそういう人物を適切に評価し活動の場を与えるような土壌がないために、芽が出ずに無視され続けるか、世に出ても干されてしまいくすぶって終わる。そしてお行儀のおよろしい官僚的優等生ばかりがのさばって、できあいの図式を疑いもせずにポコポコと適当な値を代入しては創意のない代物を量産することとなる。著述方面に限らないけれど。