3日目

鑑賞目的ではなさそうな人々が帰りがけに写真を見ながら、どうしてこうなってるんだろう、なんだか不思議、と言いあっている局面がしばしば。誰にとっても尋常ではなく見えるのは間違いなさそうだ。だが、今日お越しいただいた鑑賞目的の人は、2004年や2006年の個展もご覧くださっているのだが、変な写真だということはわかるのだけど、その先がわからず、今回よくよく話を聞いてようやくわかってきた、とおっしゃる。出たよ写真より文章や能書きのほうがおもしろいっていつものあれか、と一瞬思ったが、そうでもなさそう。ことばで表明したような態度が写真から見えてきてほしい、ということらしい。そう言われると返すことばがない。能書きと比較して云々の評は基本的に無理解かつ無評価なので無視してまったくさしつかえないが、見えの訴求が弱い、意図するところを的確かつ効果的に見えに反映できていない、ということであれば、それはいくぶんなりとも理解かつ無評価に属するものであり、謙虚に受けとめざるをえない。しかもこちらは効果を重視する立場。
ひとつには、写真をつっけんどんに並べる昨今の展示の手法では、それが属する文脈、というより、その文脈下で解釈してほしいと想定されているような文脈の元で提示するのは難しい。せいぜい能書きを書いたペラ紙をさらす程度。そのような周辺環境に負うところもあると思う。だがこちらは昨今もてはやされているような文脈依存度の高い写真、正しくは文脈に依存することによってしか成り立ちえない写真を徹底して否定する立場でもある。演出でにぎやかすような提示形式などハナからバカにしている。インストール様式やらパフォーマンス様式やら、あるいはジャーナリスティック様式やらいろいろあるだろうけど、なんらかの既存の文脈に沿った理解しやすい枠組をお膳立てしてやるような提示形式を採るつもりは毛頭ない。こちとら写真を裸一貫で投げ出すだけですよ。そうした裸一貫の写真が、それでなお見えとして弱いと言われたら、それはもうただただ敗北だ。能書きという文脈に依存しているということだからだ。
しかし、写真ですべてを説明する必要があるのか、という疑問はむろんある。結局のところ、かの人にとってこの写真がおもしろくないということを表明するにあたって、上記のような言いまわしがとられたということなのだろう。能書きのいらない写真、見えにすべてが託されている写真、これについて何か言えるものなら言ってみやがれといわんばかりの写真、というのは2003年までの個展と2005年の佐倉市美での展示である。あれについては能書きはまったく不要だと思う。まだ不満はあるけれど、当時見た目でできる限りのことはやりつくしたつもりだ。だが、それはそれで、「視覚的効果、造形性に頼りすぎ」「コンセプトが薄い」などとさんざんクサされたわけだ。何をやってもけなされる。
どうにもまとまらなくなってきた。眠いし寝る。今日はしゃべりずくめだった。はなし疲れ。