9月の終わり、半分終了

昨日お越しいただいた人に教えてもらったこと。
クダまいてもいいんだ。
芸術家とかつくり手といわれるような人々は、俗世間の趨勢など意に介さず、風のように飄々とまた淡々としているものとしばしば期待されている。世の評価に惑わされたりおのが身の不遇を託ったりするのは芸術家としてあるまじき姿であり、まして人の悪口ばかり言っているようなのは三流以下である。つまり芸術家に対して世間が求めるのは、その当の世間に属さずとらわれずに超然としていることなのである。
だからこんなふうに延々とグチりまくっていると自責の念にさいなまれたりもする。
ところが、くだんの人が言うには、つくり手はみんなグチるものだ。新進から大家、物故者までいろんな人に接してきたが、グチをこぼさない聖人君子のようなつくり手なんて見たことも聞いたこともない、という。日の目を見ずにいる人はむろん不平不満にこと欠かないし、成功してればしてたで、経済的問題とかそれはそれでまた別のグチリネタがある。
酒癖の悪い人は功成り名遂げていようがいなかろうが何かにつけてからんでくる。晴朗で影にこもったところのないように見える人もいるにはいるのだが、それはグチる相手を選んでいるだけのことで、身内なり味方に対してはやはり影でこぼしているものらしい。あるいは、そのようにグチの引き受け先、いわばサンドバッグを確保できた人が、はた目には心穏やかなように見えて、理解者に乏しかったりではけ口のない人は手当たり次第にグチってしまうのかもしれない。
この人がとりわけグチっぽい人への親和性をもっていて、湿っぽい人々を呼び寄せてしまいがちな傾向もないとはいえず、そんなに誰もがグチばっかり言っているというものでもないのかもしれない。また、そんなのはこの国の人だけで、外国に行けばみんなあっけらかんとやっているのかもしれない。でも、かつて個展を開いてもらったギャラリーのオーナーも、美術界で長年やってきてつくづく感じるのは、この世界は嫉妬羨望誹謗中傷でできているということだと語っていて、みんな奥底に澱みを抱えていると考えてもそう間違ってはいないような気がする。
救いがないだろうか。いやいや。むしろほっとした。世間がつくり手に要求するような清廉でものにこだわらない芸術家像なんてものは虚像だと裏づけられたからだ。そんなものに沿うべき理由などどこにもない。むしろ、不満をストレートに吐露してのたうちまわっているような人にこそ、人間的魅力を感じる。
でも、そんな荒れた姿を「芸術家像」として固定してしまうと、また逆の捏造となる。クダ巻いてるなんてそこらの居酒屋でリーマンがさんざんやってる。会社や取引先への悪口を吐き出すのとどこも変わらない。みんないっしょだってことだ。つくり手だからといって別に特別でもなんでもない。世間から遊離しているわけでもない。世間なるものを構成する一部。そしてクダまくのはみんなやってること。別に後ろ指さされるようなもんじゃない。ただ、迷惑なクダまきは困る。やるならおもしろくまかないとね。
再プリントをようやく断念し、発色現像液を1週間も放置したのち大五郎ボトルに詰めた。液は黒くなってはいるが甘ったるい匂いもわずかに残り、たぶんまだしばらくは処理可能だと思う。灯油ポンプで移すと泡立ってしまい酸化が進行しそうなのがやや難。また、ボトル内でも泡が多くて空気を抜ききれないので、長期的にも酸化防止上あまり好ましくはない。バットに入れて浮きぶたをしてあるほうが、かえって空気との接触面積が少なくて保存に向いているかもしれない。空間は残っているが、ほぼ4リットル分詰めたのが2本と、残った200ミリリットルほどを別のボトルに入れた。800mlを3回補充したので10.4lが8.2lに減った勘定。2.2lの液の持ち出しか。けっこう多い。蒸発も多少はあろうが、浮きぶたをしていたので無視できる程度だろう。プロセッサなら各処理槽のローラートランスポートの末端に液切りの機構があって、これよりは持ち出しが少ないはず。ここはバット現像の難点か。それだけ停止液も疲弊するのでまめに代える必要がある。停止液を挟まなければ漂白定着液の寿命が短くなるだろう。その漂白定着液はまだバットに入れたまま。入れる容器がないのだ。鏡月グリーンたくさん飲んで早く空けよう。