不易のひと

写真家南條敏之さん(id:nanjotoshiyuki)との会話。機材は増やしたくないという。機材を増やすと、その機材で何ができるか、というふうに考えるようになるから駄目だと。でもこっちはそれをこそ金科玉条に長らくやってきた。よく言われることに、写真にいきづまったら機材を替えろというのがある。レンジファインダー・一眼レフ・ビューカメラといった観察形式の変更によって対象への接しかたや撮影内容を強制的にくつがえしてもらえる、操作が違うので目先が変わり、習慣化した撮影手順を御破算にできる、別のフォーマットにして縦横比率を変えれば、こりかたまった画面構成の流儀が通用しなくなる、いろいろ効用はあるだろう。ブレット・ウェストンも同じカメラばかり使っていると飽きると語っていた。
写真内容は使う道具によってその大枠が規定される。たとえば8x10判カメラでモータースポーツの一般的な撮影はできないし、Minox太陽黒点の観測写真も撮影できない。カメラにはそれぞれ与えられた分があり、改造でもしない限りはその枠内でしか撮影できない。そこでカメラをとりかえれば否応なく別の枠に投げこまれ、マンネリから脱却して心新たに撮影にとりくめる可能性がある。
でも彼はそういうふうに楽しさを求めること自体をよしとしないらしい。楽しく撮影した時には結果がかんばしくない、苦しいなかでつくったもののほうがあとから見て満足できるという。だからあえてつらい精神状態にみずからをおくようにしているそうだ。うーむ。これこそほんとの苦行僧的写真家というべきか。いろんなひとがいるもんだ。おもしろそうなことばかりを次々に追いかけるこちらはただの根なし草。彼は長期間にわたり同じ対象を撮影していて、そうした制作流儀は上記のような忍耐指向に由来しているのかもしれない。
ふと、やはりずっと基本的に同じ写真をやっているひとが、何かの食べ物にはまると数カ月にわたり同じものを食べ続けている、と言っていたのを思い出して尋ねてみたところ、彼も同様に気に入った食べ物はヘヴィローテイションになるという。こちらは大盛りの丼物や麺類を食べてる途中で早くも飽きてしまう移り気人間。おいしいと思った食べ物屋ではいろんな料理を食べてみたい。いつも同じものを注文するひとの気が知れない。そうするとこういう焼き畑農業流浪型になるわけか。体質、資質の問題。いやそうではない。合理主義的解釈からすれば、写真撮影であれ食であれ、長期にわたって確立してきた生活習慣と行動傾向によってひとしく処理されているというだけ、となるか。