いぱdをいじってみた。新しものギライなのでこの手のハヤリモンはいつでも徹底無視なのだが、いぱdのソフトウェアキーボードでタッチタイピングができるという記事を読み、どういうしくみでそうなるのか関心がわいた。
ちょっと考える分には、ホームポジションの見当がつかないし、指先をキーボードに置いておけないのでタッチタイピングは無理ではないかと思えるが、結論としてはやはりそうだった。視覚情報によらずに指がどのキーの上にあるかを確かめるには、手のひらを本体の角に当てて位置関係を割り出すほかないが、縦位置ならともかく、フルキーボードサイズに近い横位置ではどうにもやりづらい。これができたとしても一朝一夕にキー位置を体得できるとは思えない。通常のキーボードで高速打鍵を行う人は、腕をどこにも接触させずに浮かせ、ホームポジションの上下の段のキーを打鍵するには、指先を曲げるのではなくひじ全体を前後に移動させることで指を目的の場所に置いて打つらしいが、そんなのはどう考えても不可能。これでタッチタイピングができるとしたら、よほど特殊な能力に恵まれた人士か、意図通りの入力なんぞにとらわれる必要のないようなある種のひとびとであろう。
ただ、ディスプレイとキーボードが近接しているので、ディスプレイの文字表示部分を注視していても、視野の中に指先が入ってくる。これを横目に見ながら、指先の位置情報を確認しているということはありうる。しかしながら、視線の中心で見ているのではないにせよ、視覚情報に頼ってタイピングしているのは間違いないので、これをもってタッチタイピングとかキーボートをまったく見ないで打鍵を行うと称するのは無理がある。このように言い張るひとびとは、自分の目にどこが見えているのかすらわからないのだろうか。
タイピングのしづらさを補うべく、予測変換候補が列挙されて選ぶ入力法となる。よけいなお世話だ。
ただ、キー配列を自在に変えられる点はすばらしい。
話は飛ぶが、これを使いながら思ったのは、とにかく彩度が高くて派手派手なこと。液晶パネルが安物だと飽和した色味になりがちだが、それだけではあるまい。各種アイコンなどGUIの配色だけでなく、現実的対象を撮影したとおぼしい画像の発色もそう。こうしたハヤリモンに限らず近年のパソコンの画面表示は全体にそうした色づくりで、上にあるとおりデジタルカメラの画像もそうだし、インクジェットプリンタの発色も同様なのだが、遠からずこうした色彩設計が時代遅れになる。そのときに主流になっているのはどういう色なのかと気になったのだ。派手な発色が主流になった時代は過去にもあった。Velviaの影響などというのは、ごく一部のカラーポジ使用者の間だけであって微々たるものである。それよりもはるかに消費量の大きいカラーネガフィルムにカラーマスク技術が導入され、その他の技術革新とあいまってたいへん高彩度の発色となった70年代中頃以降に派手な発色への好みが準備されたように思う。そのような発色はそれまでなかったために、斬新に見えたのである。だが、当時のプリントを今見ると、たいへんに古くさく見える。現代的な高彩度画像とは違う。今のデジタルカメラ画像は、空や木々の緑は派手だが、人肌はわりあい自然な発色をする。ところが往年の高彩度カラー写真は全部がどぎつい。それに、なかなか形容しがたいのだが、全体に大味。
いずれは今様の色彩設計も必ず古びる。そのような様式の変遷が、経済上、また文化上の運動の駆動源だからである。その時に、どのような新たな色彩再現の様式が提示されるのか、ということをふと考えたのであった。