朝から曇。11時頃Guggenheimへ。ところがチケット売場前にMetを上回る行列。中はそれほど混んでいる風でもなかったが、一気にげんなりしてWhitneyへ。しかし金曜日は13時から。Frick Collection。個人の邸宅を改装した美術館。図書館もある。5 Aveに面している。これこそ大金持ちというものだろう。それでも南北は70 Stから71 Stまでの1ブロック、東はMadison Aveまで届かず、さして広いわけではないけれど。5 Ave沿いの集合住宅も、入り口には必ずドアマンがいたりするけど、所詮駐車場もないし、たかが知れてるような気がする。ここは日曜11時から13時まで任意料金。
ここしばらく腰の右側が痛くて、カメラバッグの荷重のせいだと思うのだが、昨日の歩きすぎで背骨のあたりも痛くなった。右腿の包帯がずり落ちないようテープで留めてあるのだが、そのせいで歩きかたがおかしくなるためか右足のつけねも痛い。午前中から美術館コースだとまた無理することになるので今日はギャラリーめぐりに変更。
バスで57 Stへ。Madison Aveのギャラリーの展示を見るといいといわれたのだが、場所がわからない。Park Aveの角には巨大商業ギャラリー。あーあという感じ。
コンセプト偏重の今の風潮がいつまでも続くわけがない。必ず廃れる。なぜなら、美術はつねに新しいものを求めるから。コンセプト重視も流行的傾向であって、いずれこんなのは古くさい、旧世代のしきたりだとして退ける運動が下の世代から必ず起こってくる。いやそんなことはない、コンセプトのは20世紀以降の芸術に必須の条件であって、今後も維持される、との主張もあろう。だが、美術史において永続的に君臨し続ける価値など成立しないことをわれわれは思い知らされてきたのではなかったか。コンセプトが最も重要であり続けると思っているひとは、ニュートン力学が絶対の普遍的真理だと思っているのと同類である。現に、デュシャン以降の美術史は、網膜と非網膜、ヴィジュアルとコンセプチュアルとの相克であった。この点においてデュシャンはまことに慧眼であったというべきである。この10数年の、コスースの再評価や70年代コンセプチュアルアートの二番煎じの跋扈など、非網膜派の覇権を示している。しかしながら盛者必衰である。ヴィジュアルが主流となる時代がきっとやってくる。ただ、それがいつになるのか、生きてる間に起こるのか、はわからないけれど。
あきらめて、バスで9 Aveに出て、そこから南下。Chelseaへ。9Ave 14Stから西の再開発地区。以前滞在していたホステルの前の通りを2ブロック西に行ったところだった。Heller Galleryのガラスの立体はちょっとおもしろかった。High Lineは高架の廃線をリノベートした公園。GagosianのRauschenbergは大勢のひとでにぎわっている。東洋人はほとんどいない。Yvon LambertのCarlosv Amoralesは悪くない。他はどれも見るに値しない。だいたいのギャラリーはドアを開けて入っても目も上げない。東京の商業画廊と一緒。東京がまねしたのか。みんなえらそう。挨拶の必要はないらしい。この街では珍しい特異な業種。Center 548でEIAB FAIR。あちこちのギャラリーがブックアートを持ち寄ってブース出店、ということらしいのだが、壁には版画や写真がかかっている。エディションのあるアート、ということだろうか。NYCが多いが、ProvidenceとかUKとかあちこちから来ている。しかし、とにかくつまらない。
今日は金曜日でいくつかのギャラリーでオープニングがあるらしく、そのせいもあってか数人連れで来ている中高年の客が多い。学生みたいなのも多い。有名な日本人アーティストのオープニングもあるらしいが、行くわけがない。知ってるひとがいてもそう相手にしてももらえないだろうし、タダ飯食いに行くだけ。無駄。
Whitneyに戻る。金曜18時以降は任意料金。館のまわりをぐるりと並んでいる。行列に加わることは滅多にないのだが、並ぶ。1ドル払って入館。
FriedlanderのAmerica by Car。車で全米各地を撮って回ったシリーズが2段がけでかかっている。2002年から08年にかけての撮影。モノクロスクエア。かなり焼き込んであるが現像ムラにも見える。広角レンズで、運転位置から撮影しているので、ハンドルや車内の光景が全体の半分以上にわたって写り込んでいる。車窓からの風景というと身を乗り出してウィンドウ越しの風景を広く撮るのが多いので、その点ではあまり見なかったかもしれない。Lee New City, New York, 2007ではレリーズケーブル引いて外で自ら写っているとか遊びもある。John Szarkowski North Dakota, 2001というのはあのシャーカフスキーだと思うのだが、ジーン・ハックマンのような老人が、古いCompurシャッターつきの、Commercial Ektarあたりを装着したディアドルフをGitzo上に構え、首からおそらくMakina67を提げ、帽子をかぶって写っている。昔の盟友を訪ねた、というあたりか。ほかにも友人らしきひと多数。何かそういうご隠居の茶飲み話的旅行記。STOPの交通標識を追いかけて何枚か撮ったりしているが気まぐれですぐ飽きる。
数の多さと2段にかけられていることからして、1点ずつを丹念に見ていくような展示ではない。本人の意図はともかく、そのようにならざるを得ない。そうすると、車でアメリカ各地に旅行して車内から撮影したという行為のみが前景化する。趣旨としてはわかりやすいしまとまっている、それだけ。つまらなくはないんだけどな。うまいし。
今回、特にLAで、フリードランダー全盛期の写真のような抜けたすっからかんな空間を探していたのだった。同時に、フォトリアリズム絵画で描かれたような、けばけばしい典型的アメリカ風景も探していた。どちらも見つからなかった。そういった意味では、フリードランダーの写真は、アメリカの風景に対するプロトタイプを与えてくれたのかもしれない。
しかし人気があるらしく混んでいる。写真の展示はどこでも混んでいる。接しやすいからだろうか。
Paul Thek、これはきつい。
1960年代半ばにはワックスと人毛で、生肉や器官を模してつくられたグロテスクな立体、Meat Piecesのシリーズ、さらにそうした肉がいすに垂れていたりするインスタレーションを展開。今ではさほど驚かないが、当時は衝撃的だったろう。しかし、あとが続かなかった。絵画を描き出すが、どんどん悲痛になっていく。本人は満足していなかったろう。そのつらさが切実に伝わってくる。日記が展示されているが、I shall have a sense of humor at all possible times.と見開き一面に書かれていたり、学習ノートの表紙に「NYC NOVENBER 1978 "Wisefoolery" a PATHOGRAPHY」とある。病跡学だ。そしてエイズでなくなる。
「Modern Life--Edward Hopper and his time」も小規模ながらいい。別の画家による、同じ1927年に描かれたNYCの高層ビルや工場の・倉庫の絵画と並べたり、彫刻や写真と対比されている。モダニズム的な意匠を描いた絵画の特徴として、直線で構成されているということがある。あるいははっきりとした明暗のコントラスト。でも、ホッパーは、Queensboro橋を描いても、そのようなモダニズム礼讃とは無縁である。どこかもの悲しげで、頼りない。他にも、室内の日常や盛り場といった状況ごとに同時代の絵画と見くらべられるようになっていて、この時代にありながらモダニズムに背を向け華やかも追わず、さりげない日常を淡々と描いた彼の独自性が際だつ。しかもそれらNYを舞台とした絵画をほかならぬそのNYで見るというのが特別な感慨を与える。当時と変わらない煉瓦づくりの街並みが残っているこの街の印象が絵画と交錯する。すばらしいのは、これらがすべてコレクションで構成されているらしいことだ。絵画のみならず、同時代の写真や彫刻への目配り、自館のコレクションに対する把握と理解、筋が通っていて、文字情報を見なくても意図が明瞭に汲みとれる展示へとまとめあげる力量に感嘆する。
ひとしきり見終わって20時過ぎ、金曜日は21時まで。5階、5階と4階の間のフリードランダー、と見直す。Paul Thekでしめるのは後味悪すぎすのでとばしてホッパー。閉館前の追い出しがかかったのは10分前でMetよりはまし。Metのように高圧的ではない。じっくり見ると、3時間ではちょっと足りないかな、4時間あれば充分かな、というところ。手頃な量。ここは気に入った。狭いけれどいい美術館。1ドルは申し訳なかったくらい。