普通の写真(承前)

19日の続き。

鑑賞されることを目的としてものされた写真に範囲を絞った上で、今やっている、あるいはもう終えようとしているというべきなのかもしれないが、一連の写真が「普通の写真」ではないという場合、普通の写真とはなんだろうか。
市販のカメラや、特にひねったり妙な仕掛けがこらしてあるのでない撮影方式を用いた写真、そういったもののことだろうか。
それならよくわかる。今やっているのはそうした意味で明らかに特殊である。違いが一目瞭然。撮影方式自体でオリジナリティを追求しようとしているのだから、特殊でなければお話にならない。
ところが、どうやらそういう意味ではないらしい。カメラが普通かどうか、というのはメディウムの問題、あるいは写真の形式の問題だが、普通の写真というのはカメラが普通であるだけでなく、写っている内容や撮影の姿勢も問われるものであり、ジャンルの問題に属するようなのだ。
そこで、前回何度も述べた、出かけた先で関心を持った対象を撮影していった写真、ということになる。
確かにそういった姿勢からはまったく縁遠い。従来の写真での線遠近法的空間再現とはまったく異なる空間再現の形式をまず準備し、その形式を現実化するために個々の対象に演繹的に当てはめていく経路を経ており、尋常ならざる形式を視覚化するにあたってより訴求力の高い対象、という観点で対象を選んできたので、対象に対する関心は2の次である。いわばガラスの器を引き立てるために、そのなかに注ぐ液体は何にするか、色はどうするか、発泡性のほうが効果的か、湯気が立つほうがいいのか氷が適切か、などとあれこれ迷っているようなものである。一般的には何を飲むかという中身のほうが重要とされるわけだが、器が先にくる局面がたまにはあってもいいではないか。写真のそうした可能性を頭ごなしに否定するのは偏狭すぎる。
で、そうした姿勢が特殊だというのは認めざるをえない。ならば、行く先々で目にとまったものを奇をてらわずてらいなく撮影したような写真は、鑑賞対象としての写真という狭いジャンルに話を限定するなら、「普通の写真」と見なすことができるのだろうか。
確かに、対象や手法を限定せず、行った先々で、カメラひとつの手持ち撮影というもっとも身軽なスタイルで撮影するのは、手軽に行えるし、はじめたばかりのひとにも実行しやすく、行っている人が多いと思われる。参加者が多ければ、「普通」と呼んでもさしつかえないかもしれない。
しかし、参入しやすくて競合相手が多いだけに、そうしたジャンルの常として、飽和化、ハイコンテクスト化、セグメント化が進行しやすそうだ。
前回の記事にコメントくださった糸崎さんの、つい漏らしてしまったといった風情の隻句が示唆的である。

ぼくのこれまでの「反写真」はどのシリーズも特徴がハッキリしてたので、個展用のセレクトも迷いが少かった…だが「反ー反写真」は多くの写真家が撮るのと同じような路上スナップで、作品セレクトが難しい…他の写真家と極めてデリケートな勝負になることに、改めて気付く…

ぼくはこれまで他の写真家に対し、微妙な差異で争う事を避けてきた…しかしそれは素人から見て「微妙な差異」に過ぎず、あくまで玄人目には「大きな差異」なのであり、その様な高度なレベルを写真形は競っているのだった…自分も遅ればせながら、そういう世界に参入する事になるのだが…

こうしたサブジャンルにおいて、撮影者自身のセレクトでは、写真のあいだの微細な優劣を見定め、他との比較でも、狭い中にひしめく同種の競合者とのわずかな差異を評定する能力が必要となる。
そのわずかな差異はどのように見わけられるのだろう。構図や色調などのわかりやすい傾向も手がかりのひとつだろうが限界がある。やはり、複数枚を通じて読みとられうる、制作者の関心や意図といったものとなるのだろう。
そうした写真は1点だけで鑑賞されるのではなく、複数枚を通じて、撮影者の関心のありかを辿るという手続きをとるものらしい。撮影者の興味を、写真を介して追認するというこみいった鑑賞様式。星ひとつを見てきれい、という単純な反応は許されず、7つの星の並びを見る側が組み立てて、それらが点の北極を指している、というふうに読みとることが求められる。多様化が進めば、関心のツボも多様化し、同じ尺度ではさばけなくなり、さまざまな読解のルールと作法が求められ、訓練と素養が必要となる。
しかもそれは、おもしろいものを直接見せられるのでなく、他人がおもしろいと思ったものという回路を経由することとなるわけだ。直接に提示せずにひと手間踏ませることで、一段ひねりがきいていてより高度で、「読み解く」相手として通好みなのだろう。だが、単純明快とはいえまい。
一方、形式を問題にしたり、はっきりした仕掛けをこらした写真は、うまくいっているならば、写真の特徴は誰にでもわかるし、好きか嫌いかの判断は用意に下せる。なぜなら一見して「変」だから。鑑賞対象としての写真内の特定の文脈に照らさなくても、一般の写真の文脈の俎上に載せるだけでそれぞれの鑑賞者なりの対応ができる。そのような写真をやろうと少なくとも心がけているし、上記の糸崎さんの「フォトモ」もそうだ(なお、糸崎さんのそれ以外の写真のほとんどは、そうではなく写っている対象を問題にした写真であると思っている)。鑑賞対象としての写真という狭い世界の流儀になじんでいない一般のひとであっても、なんらかの態度表明を下せる。意図が理解されているかどうかはともかく。
ここで縷々述べている「普通の写真」はそのようにわかりやすくはない。多少とも鑑賞対象としての写真を見てきた人間にとっても難解だったり理解できないことがしばしばあるし、現代美術や絵画のひとびとからは、写真はわからない、としばしば言われる。その場合、概して街中や日常のスナップを指していて、誰がやっていても大差があるようには見えず、どこを見ればいいかがわからない、というふうに語られる。まして、そこらを歩いているひとならば反応に困ることが多いだろう。ハイコンテクスチュアルであり、それぞれの固有の文脈と流儀に従わない限り位置づけのしようがなく宙ぶらりんになってしまう。文脈と流儀をわきまえ、価値判断の基準を共有する集団の中でのみ「普通の写真」たりうるのではないか。街中で撮影された写真というサブジャンルそのものが数ある特殊な様式のうちのひとつにすぎないのではないか。
はたしてどちらが特殊なのだろうか。わからなくなってくる。
まだ続くかも。