「普通の写真」蛇足

あんなことこんなことを述べていると、どのようにして変な写真をやるに至ったか、と問われるだろう。
街歩きで、あらかじめ特定の対象を決めることなく目についた場面を撮影するという場合、どこをおもしろいと感じるかについては、おおむね4通りあると思う。

  1. 文字内容や意味
  2. 人物や擬人化されたものの動作や表情
  3. 対象の色や形
  4. 明確に上記の3つのいずれかには属さないが、そこはかとなくおもしろさを感じさせる、あるいはそうであると思いこませる文脈が設定できる

全部嫌だった。これまでになされてきた多くの写真の堆積の結果、解釈のコードがギチギチに決まっていて、そのお約束の中でのふるまいになるとしか思えなかった。
みずからの興味のおもむくままに写真を撮影するというのは、一見自由で、てらいのないもっとも健全な写真の態度であるかに見えるが、さまざまな桎梏でがんじがらめになっていると思えた。そんなハイコンテクストの澱から脱出したかった。
20年前にしきりに考えていたことを思い出す。街中で写真を撮ると字が写り込んでくるから嫌だ。それは看板が見た目にきれいでないからというよりも、文字が写っていることで起きる意味内容の発生と、造形性の言語的意味への屈服に抵抗していたのだった。人物への反発もそうだ。類型化された「おもしろい人物」という尺度に訴える陳腐な写真と張り合う気はしない。色や形のおもしろさだったら、街中スナップでやらなくていい。
興味ある対象を撮影することにどんな意味があるのだろうか。みずからの関心の所在を確認できる。一度やっておくのはいいかもしれない。でも、関心ある対象はじかに見てるだけでいい。そのほうが心おきなく見られる。なぜ写真に収めるという迂回路をわざわざ経由しなければならないのだろう。
自分にとっての意義は見いだせない。ならば他人に見せるところで意義が発生するのだろうか。関心の度合はともかく、関心のある対象を撮影した一連の写真を他人に見せ、みずからの関心の総体、あるいはさらに整備された関心の体系を誰かに提示する。それは他人にみずからがおもしろがるツボを理解してもらうにはいいかもしれない。それが身内なら、ひととなりの理解として多少の関心を持ってもらえるかもしれないが、見も知らぬ他人がそれをおもしろいと思うのだろうか。そこに公共的意義があるのだろうか。
見る側として考えると、他人の関心が一連の写真群として提示されていて、それを見ていって提示主体の関心のありかをトレースする、などという手続きはまったくどうでもいい。会ったこともないフランス人の母親が死んだからと慨嘆されても同情も共感もできない、同じことだ。
かつていた会社の流儀にまったくなじめず特殊呼ばわりされていたが、数少ない味方の同僚からは、特殊の中で一般たろうとして特殊になっている、と評された。あの頃と同じ事態にまたしても陥っているのかもしれない。