ついに特許出願。
これまで特許庁関連で書いてきたのはすべて商標に関する話だった。商標も商売上は重要だが、難度・費用・実効性において、商標は露払いどまり。本命はなんといっても特許である。商標は質を問わなければ誰でもとれる。手続きも、ある程度までであれば弁理士に頼らずに素人で可能。3件出願して確認済。しかし特許は手に余る。
商標出願で特許電子図書館をある程度使えるようにはなっていたし、電子出願の方法も習得したから、当初は明細書を自分である程度作成して、最後に弁理士に整備してもらって安く上げることも考えた。しかし実際にやってみて厳しいと痛感した。言い回しが特殊であるだけでなく、構成の組み立て方からして、素人には手が出ない。思ってたほど甘いもんじゃなかった。
請求項はさらに高度で、未経験者がいきなり書くのは無理。訓練すればいつかはそのスキルを習得できるだろうが、その時間と手間とリスクを考えたら、100万近く払っても専門家に頼んだ方がよほど安くつく。商標とは次元がちがう。そう簡単に習得できるスキルではない。何よりも、費用をケチって、虎の子の発明の権利化を台なしにしてしまっては元も子もない。この発明こそが、商標とちがっておいそれと誰にでも得られるものではない、知的財産の花形なのである。何しろ、特許は一発で巨万の富に化ける可能性がある。商標は末永く信用の礎となって、安定した利益をもたらすかもしれないが、特許は時に世界を変えるのだ。比較にならない。
弁理士だが、探すといろいろ。このジャンルに絞っても多数出てくる。大きい特許事務所で、弁理士を何人も抱え、初回の相談から1時間2万円と言ってくるところ。これは実質的に小口はお断りということだろう。
小さいが世襲らしく、千代田区に親子で事務所を構え、同じ業種のクライアントがいて守秘義務違反になるのでと断ってくるところ。だが、同じ業種の客がいたら受けられんと言うのでは、専門やら得意な分野などなりたたなくなるだろう。これも単なる断る口実としか思えない。世襲の事務所はやめた方がいいとどこかに書いてあった。
大手だが零細事業者に理解があり、事情を理解してくれて通常料金より割り引いてくれそうなところ。でもここは、たくさんの弁理士がいてこの分野の専門家も数人いるのでそういうひとにやってもらえるならと思い連絡したのだが、担当ということになった弁理士は特にこの分野の専門家ではなく、弁理士になりたての様子で、どうやら練習台にされるかわりにまけてもらえるということらしい。
パソコンか何かを買ったり部屋を借りるのとはちがうのだ。安い分多少質が落ちても我慢、などと落としどころを探る買い物ではない。費用と成果とを天秤にかけられる代物ではないのだ。権利化できるかできないかのどちらかしかない。権利化できなければ、たとえ安かろうとも払った費用が無駄になるだけでなく、発明そのものの価値が大きく毀損してしまう。妥協と案配がなりたたないのである。
ある大企業でプリンタの開発にも携わったという弁理士の特許事務所は、開設して日が浅く、規模も小さいが、特許成立率が高く、この分野には強いという。メーカー勤務時代にも、開発者でありながら、みずから特許明細書を書いて出願していて、特許件数もかなり多い。そんなに安くはならないが、こちらの事情も理解してもらえて、ある程度は考慮してくれるとのこと。
結局この弁理士に頼むことにした。決める上で一番大きかったのは、先述の経験の浅いらしい弁理士に技術内容を説明したところ、どこか腰が引けていてやる気なさそうだったのに対し、こちらの弁理士はおもしろがってくださり、「これは、発明です。権利化まで持っていける自信があります」といってくださったことだ。
新米の方には、同じタームで検索かけたところ、関連する特許が数万件出願され、そのうちの過半が不採択となっている、成熟した技術分野であって、こちらが思いつくくらいのことはとうに誰かが発案してると考えた方がいい、枝葉でとることを考えるか、出願せずにノウハウとして隠して模倣を防いだ方がいい、と言われ、まあそうかな、と弱気にさせられた。
ところが元メーカー勤務の弁理士には、薬品とかなら事情が別だが、これくらいの発明品なら、見本があれば再現する競合相手が必ずでてくる、模倣を阻止するには特許しかない、という。それに対し、特許出願は費用がかかるので、出願する国は限られる、特許でノウハウを明かしてしまったら、特許で保護されていない国での模倣を招くだけではないか、と返したところ、特許明細書の記載は概略なので、それだけですぐに模倣はできない、特許明細書の記載程度で模倣されるような技術なら、公開せずともたやすく模倣されるという。
どのみち模倣は止められない。いつかは模倣される。ならばこそこそ秘匿するより、正々堂々公開した上で独占権を確保する方がいい。いたって明快。
依頼するならこの弁理士にと思ったのだが、費用負担が予想以上に大きい。このボーダーレス経済環境下において、国内特許だけでは意味がなく、少なくとも米国と中国にも出願する必要がある。国内市場だけを相手にしているなら国内特許だけで充分だが、実際に海外進出するかどうかはともかく、開業前からその可能性を閉ざしてしまっているようじゃ先行き暗い。だが、米国特許はかなりうまくいって100万円、通常200万は覚悟しておいた方がいいという。これも弁理士によって言うことがちがうのだが、この先生によればそう。1カ国100万と思っていたが、そこまでかかるとは。
米国内の特許等の出願代行業務は、米国弁理士かカナダ弁理士の資格を持つ者でなければ行えない。日本の弁理士は出願代行できず、米国弁理士に依頼することになるので、日本側と米国側の両方の料金がかかることになり、費用がかさむ。他の国も基本的には同様なのだが、米国は特殊なのと、このような有資格者への報酬相場がとりわけ高いためにそうなるのだろう。
数は少ないのだが、米国弁理士資格を持つ日本人弁理士に依頼した方がよかったろうか。しかし、米国弁理士資格を日本在住で取得するのはハードルが高いらしく、それに加えてこの分野に通じた弁理士は限られるだろうし、いたとしても、本人が親身になって仕事を受けてくれるとは限らない。実際の明細書作成は部下の事務員に丸投げ、という事務所もあるらしいから。興味と責任を持って受けてくれる弁理士の方がいいに決まっている。
米国弁理士に直接依頼する選択肢もなくはないが、日本語でさえ理解がおぼつかない特許明細書を英語に訳して、日本との制度の差に配慮しながら弁理士に指示するなどという魔法を使えるわけがない。そこらの輸出企業だってそんなことやってない。みんな日本の特許事務所に依頼していて、特許出願する以上外国出願があたりまえの時代であるから、外国出願は日本人弁理士の主要な業務の一つである。商標ならともかく、特許に限っては専門家に任せたほうがいい。餅は餅屋。
外国出願費用を心配する以前に、まず基礎になる国内特許だけでも100万くらいはかかる。
助成を受けられないかと調べてみると、外国特許に対する助成はあるが、国内特許に対するものは少ない。自治体のもないではないがハードルが高い。そこで、ある公的助成を発見。
これを出すことで特許出願への覚悟がついた。たとえ助成を受けられなくても特許は出願すると決めた。
4月下旬に申請し、6月頭に交付が決まった。交付決定通知後さっそくはじめたのは特許出願準備。
明細書モドキはつくってあったので、弁理士に発明の内容を理解してもらうための叩き台として整備。図面も自前で用意し、図面作成料を浮かす。
ここからは弁理士とのやりとり。特許とは、とにかく文章である。説明のための図もあるが、あくまで補足どまり。かんじんなのは、とにかく発明をことばで記述しつくすこと。しかも特許の範囲をできるだけ広くして、特許に引っかからない抜け道をとれないようにし、模倣の余地をつぶしていくために、独特の文体となる。技術内容を最も理解しているはずの当人でも、明細書を1度読んだだけでは充分に理解できず、2度3度と熟読してようやくのみこめてくるほどのわかりづらさ。しかしそれも合理的理由があってのことで、日本でだけ通用するガラパゴス経文ではなく、他のどんな国の特許文書もこんなような難解さであって、世界標準の様式だという。ここでの世界標準というものは、米国標準とは必ずしも言えない。米国の特許の基準はかつては特殊だったが、ここしばらくで欧州や日本の考え方に合わせて制度変更されてきたらしいから。
特許の業務に必要なのは、文章作成および読解能力、これに尽きると思う。もちろんその分野への技術的理解は不可欠だが、弁理士とは、曖昧模糊としていて言語的分節が未分化の開発者の思考を明晰な言語的記述に成形する役どころであり、文章ベースの理解が必須という点で、専門的技術への理解も文章の運用能力の一環と言えよう。それも、そこいらの人文系の論文のような、深読みとこじつけとアナロジーでできあがっている、内輪でしか通用しない戯言ではない。確固とした論理に支えられ、どこでも通用する明確な記載で貫かれている。
その作成の過程でも、難なく話が通じる。写真や美術や批評関係の人々とくいちがい話が合わなかったのが嘘のように、考えていることをすんなり共有してもらえる。学生の頃から文系の連中とそりが合わず、大学の主流で学生数も多かった工学部や理学部の方が話が合い、そっちこそ自分の属すべき居場所だとずっと感じていたのだが、やはり技術畑の相手とは論理ベースで意志疎通できてすっきり話が通じる。写真関係ではそんな相手はほとんどいなかったが、ここにいたとは。
写真業界に属する技術者であるはずのラボの現場の人間でさえ、技術関係のつっこんだ話をするとわかってもらえないことが多かった。やろうとしていることが特殊すぎるのか、こっちが頭おかしいのか。
しかし弁理士相手だとそういうストレスがない。筋道立てて、なぜそれが必要なのかを説明すれば、すいすいわかってもらえる。今回依頼した弁理士がたまたま優秀だからというだけの話ではない。2年前から商標がらみで十数人の弁理士とやりとりしていて、もちろん能力の差は歴然とあるのだが、あ、このひとには話が通じる、と感じることが、他の局面にくらべて格段に多い。話が通じない相手との苦闘を長年続けているので、二言三言会話すれば、話が通じる相手はわかるものである。
彼らがこうした話に適性が高いのは、技術に根ざした思考に慣れているのもあろうし、基礎学力の差もあろうけど、最大の理由は、技術において独自性を追求することになじんでいるからではなかろうか。
ラボにせよ写真家にせよ、そういった姿勢が乏しいから、自分の経験範囲外のことはうけつけようとしない人物が多いのだ。そこから抜け出ていこうという意識がなく、一度獲得した技術に執着しようとする。それが支えになっているから、破壊されることをむしろ忌避する。だから独自の技術を否定にかかる。理解できないものを排除する。
写真の連中が技術を下に見て、「技術より何をやるかだ」とかいうつまらん常套句を百年一日で繰り返しているのも、そういう背景があるからではなかろうか。自分が理解できる範囲内の技術に固執しているそういう連中の方が、むしろ技術に縛られているというのに。
特許の世界はそれとはまったく別である。すでになされていることには価値が認められない。これが特許というしくみの根幹なのだから、その査定は徹底している。判断の基準は明確であり、それに不服があれば審判を仰ぐ制度も整備されている。このところしばしば報道されるとおりである。
この世界を瞥見すると、アートにおける「オリジナリティ」がいかに恣意的で甘いかがよくわかる。所詮勝ち馬に乗ろうとしているだけだから、真のオリジナルを明文化して保護するなどという意識はないのである。空気読みとさじ加減次第の世界。特許の制度も完全にフェアとは言えないかもしれないが、アートの評価制度とは比較すら無意味である。
などと書くと、写真は技術じゃないとか写真を発明に矮小化するなとかほざく輩が必ず出てくる。
まったくちがう。写真は発明された初期から特許と共にあった。ダゲールの特許をフランス政府が買い上げたという初動が写真の普及に与えた影響ははかりしれない。写真は特許制度の確立と歴史的経緯を一にしており、写真は特許そのものだといってもさしつかえない。
初音ミクを用いて何をつくろうとただのユーザ。初音ミクというジャンルの中の有象無象。同様に、すでにできあがったメディウムであるカメラや写真を用いて何をつくろうと消費者の域を出ない。カメラや写真というものをつくりあげたひとびとの後追いでしかないのである。
おっとそういえばもはや写真ではないのだった。まあどうでもいい。