むしろ、他人のやってることなんかほんとはどうでもよかったというのがはっきりしてきたのだろう。公言は憚ってきたが、海外の一流美術館で大家の傑作を見たいともまるで思わなかった。思ったらとっくに見に行ってるはず。でも画集さえ嫌ってきたわけだ。
他人の作るものに満足できていればそれで充分で、わざわざ自分でつくるなどという面倒にこの無精者が踏み出す謂れなどどこにもないのだが、見るべきものがないからしょうがなく自分でつくるのだ、なんて昔は言いはっていた。無理な強弁だった。そもそも自分のことにしか興味はなかったというだけ。かつてしきりに見てまわっていたのは、他人の作ったものそのものを見るためというよりは、どこかに自分の属すべき文脈があるのではないかと探していたにすぎないのだろう。