自分の属すべき文脈、と問題措定する時点で、観客側に立地していた。文脈というのは受容する側が整理し解釈する段で必要とするものであって、つくっている立場には直接は関係ないもののはず。他人の展示を見過ぎたのだ。みずから観客となることによって観客を意識することになる。
今の現代美術の「作家」は、うまく立ち回っている人物ほど、文脈を過剰に意識しているというべきだ。売れ線狙いのお歴々は言うにおよばず、つくっているものがあまり現代美術の土俵に合っていなくても、口上を弄して現代美術の文脈にどうにかもぐりこませようとする。どっか別のジャンルでやるとかしたほうが無理しなくてすむんじゃないの、といいたくなるような作家が「コンセプト」を並べたてて現代美術の文脈内に落としどころをでっちあげ、どうにか居場所を確保すべくみな躍起。
一方で現代美術のほうは「プリミティブ・アート」やら「アウトサイダー・アート」やら、文脈を整備することで異質なものをとりこんでは延命のために貪欲に併呑しようとする。これは植民地主義的な領土の拡大というような景気のいい話ではなく、倒産間際の企業が手当り次第に金策に駆けずり回っているというほうが近いような気がする。モダニズムから一向にかわっていない、回転がとまれば倒れる自転車操業を維持すべく回転の動力を供給しつづけているわけだ。消費される素材。息が切れたらそれまで。

文化的に帰属すべき土地がどこにもなく、文化的難民として認定し受け入れてくれる土壌を探し続けて幾星霜というわけだが、他のさまざまなジャンルでそうであったように、現代美術においても難民認定の基準を満たしてはいないらしい。御墨付きを用意できない者は帰化を許されることもなく強制退去に甘んじるほかない。