転載

「コンテンツ」の終焉

必要がありストックフォトを物色。 惨状に驚いた。 15年前に買った写真素材集のCD-ROMに入っていたカットがいまだに売られている。しかもCDが全部で7,000円くらいだったのに1点2万とかで。新作を備給する余裕すらないのだろうか。昔の資産でずっと食いつなげ…

写真はわからない

20年以上にわたり鑑賞対象としての写真を見てきてわかったのは、自分には「写真がわからない」ということだ。 展示される写真を評価する尺度として、その筋では共有されているらしい価値判断の基準を、まったく理解できない。絵画や彫刻のひとびとがしばしば…

評価と売買

格付会社はこの数年で、機関そのものの社会的信用を地に落とした。彼らの発表する格付けのいい加減さが知れわたってしまったのだ。今なお自国政府発行の債権に有利な格付けをあからさまに行ったり、みずからの利益を誘導するような振舞を平然とやってのけて…

版画の新たな鉱脈

多くの版画家による新作をまとめて、かつ何度も仔細に見られる機会が毎年あり、若手版画家の動きを、部分的にではあれ概観させていただいている。ここ2、3年で目立ってきた傾向として、スクリーンプリント等で厚盛りする版画家が増えてきたように思える。不…

情緒的・物語的傾向が強まったのはなぜか

もうひと月前になるが、2011-09-18のコメント欄で、nanjotoshiyukiさんと次のようなやりとりをした。 日本の写真展では「コンセプト」が個人的な来歴や経験談や所感という「物語」にすりかえられてしまっていることが多いと思います。本来はわかりやすく説明…

facebookへの投稿より 絵画というジャンルとのいろんな差異を実感させられる毎日だが、写真にだって違和感ありまくりだったのだから、「絵画」と「写真」という二極を設定して、「写真」ではこうこうで「絵画」とは違う、といういいまわしは避けないと。「写…

「誰にでも」と「わかるやつにだけ」

初個展から見ていただいている、制作と評論の両方をなさっているかたから、君のは昔からやりすぎる、わかりやすくしすぎなんだ、と言われる。むろん否定的な意味で。 そういうことか。他からも、もっと難解でいいんじゃないか、などと言われていて、はあ? …

写真と物語

10年ほど前にはやったMoMA教育部門出身のアメリア・アレナスの対話型美術鑑賞法には、明らかに向く対象とそうでないものがある。彼女は関心のない美術品に対しては素通りだったらしい。言語化されにくい美術品は間違いなくあるわけで、そういったものを排除…

どこもかしこも「物語」

ひさびさに銀座の画廊をまわる。だいぶたたんでいて、新しいところもできてるらしいが場所がわからない。 貧困にあえいだとか夭逝したとかいった制作者の物語の消費が主で、肝心の制作物は物語の口実程度というのが、この国で美術が受容されるさいのもっぱら…

やけどから1年経過した。 ライトスタンドとライトホルダー等を預け先から回収。道具というのはみだりに処分するものではない。長いこと使わなくても、寝かしていればいつか使うこともある。ただ売り時というものもあるので、確実に不要と思えてしかも値が張…

脱「写真」宣言

誰もが「写真とは」と語る。それは、写真の「本質」を語っているかに装いながら、その実みずからの好みや信条を「写真とは何か」にかこつけて表明し、同時に、気にくわない相手をおとしめているにすぎない。各人各様に「写真とは何か」の答えがありうるのだ…

「器用さ」の諸相

Sのネガ15枚を一気にプリント。眠い。いや自分がではなくネガが。自分もか。 大全紙から六切を大量に切り出し。慣れれば全暗でも難なくできる。これは誰にでもできる作業なのだろうか。でも美大での写真の実習で、カットフィルムホルダにシートフィルムを装…

盲目者の写真に関して再考

20100725の日誌でおおえさんからいただいたコメントの重要性を看過していた。うかつであった。 あるひとが、自分のための写真と他人に見せていい写真という区分をしていた。 われわれ鑑賞対象としての写真をやっている人間は、自己満足という非難を怖れるあ…

議論のその後

先だっての阪根さんとのやりとりで得られた最大の収穫は、ずいぶん凝り固まってしまっていたと気づかせてもらえたことであった。 阪根さんが指摘なさった、「文脈や過去の作品に関係なく」「個々の問題意識において撮っている」写真家と、そうではなく、過去…

一昨日の記事でのご指摘をくださった阪根正行さんからお返事をいただいて、それに返信したので、そのやりとりの内容を整理し手を加えて掲載しておく。なお阪根さんのブログでもこのやりとりについて言及されている こんばんは。 メールありがとうございます…

オリジナリティの追求にとらわれているといった指摘をあるひとから受けた。 それはその通りだ。先刻承知である。 オリジナリティを金科玉条とするのはもう古い、今のひとはそういうモダニズムにはもう縛られていないのだと。 そうなのかもしれない。だが古い…

写真の周辺にあるもの、比喩ではなく現実の話

雨上がりだが巻雲や高積雲が盛大に広がる。ひきつづき器の組み立てなど。たぶん定規での計測を誤ったのだろうが、5mmほど短く切断してしまっていた。手間のかかる仕上げの工程はまだなので、また買ってきてやりなおすかとも考えたが、試してみるとゆるいもの…

見なければ語れない、とは限らないが

かつて某文芸誌に「読まずに語る文芸時評」なるものが、その後政治家に転身した小説家によって連載されていた。およそ読む気がしなかった。 ある「キュレーター」は、いちいち見ているようなのは素人だ、われわれプロは見ないでコンセプトだけで判断する、な…

理解か評価か

理解者がほしいなんてのは誰でも言うこと、理解ではない、評価こそが必要だ、とずっと言い張ってきた。今でもそうだ。 理解より評価。 なぜか。 「理解なき評価」と「評価なき理解」を較べてみるといい。 理解をともなっていようとそうでなかろうと、高評価…

コレクション/アーカイヴ追記

昨日の記述に関連してあとから思いついたことを例によって蛇足な補足。 コレクションは所有のための収集、アーカイヴは保存のための収集、と言いかえられるかもしれない。コレクターを突き動かすのは何よりもまず所有欲。その場で見るだけではすまない人が収…

再現とは所詮使いっ走りなのである。代行としての再現に限るならば。 西洋絵画における、遠近法や階調再現を基盤とした写実的再現という様式が、カメラ・オブスキュラに拠ってあみだされ、さまざまな他の様式を制圧して全世界に君臨した顛末については以前述…

朝から特快晴。やや透明度低く、また昨日のように昼前から雲が出るような予感もある。しかもメガネがないのでろくすっぽ動けない。でもこの時期こんな好天で出動しないわけにもいくまい。矯正なしの裸眼でどれだけ写真がやれるかの実験として繰り出してみる。…

今日は先日ほど空が深い青ではなかった。しかし現代建築の時ほど空の抜けに執着しなくてもいいような気がしている。high-definitionやhigh-resolutionといった方向となじむ対象でもないからだろうか。去年の写真を見せたある人物に、シャープネスがないから…

つづめていうなら、「それがかつてあった」のかどうかが問題になるのは一部の当事者にとってだけだということだ。家族写真ならば当事者はきわめて限られるものの、歴史的事件にまつわる写真や社会問題に関わる写真ならば当事者数はふくれあがる。しかしいず…

写真はたいへんですね、競合相手がたくさんいて、誰でも使えて、みんなやってて、などと口走る連中にしばしば出くわすが、こうした手合いは、ことばをもって何ごとかをなそうとする人間に対してもそのように言い放つのだろうか。

いよいよ「次」へ。どこからかと考えたが、最初はやはり増上寺。あの辺はあまり行ってないので行きたい気分もある。そこで浜松町から。本堂正面へ東からだと背後に東京タワーが屹立。つまらなくもないのだが、東京のギャップとキッチュを象徴する典型的な画…

昨日の続き。 制約や規範を必要とするのは眼高手低の人が陥りがちな傾向ではないだろうか。批評眼の人、なんらかの先行するテキストや文脈があってはじめて何ごとかがなせる人。既存の文脈などお構いなしに、勢いと旺盛な生命力で走り続けられる猪突猛進型の…

規範について。 そもそもピアノというものが好きではない。もともと音が嫌い。しかしグレン・グールドはとりわけ苦手。グールドの音楽そのものよりも、グールドを聞いてれば頭よさそうに見える的な風潮に昔から反感があった。しかるにずっと前からブランドで…

もはや若手ではない。昨今の、若いうちに芽が出なかったら見込みはないといった風潮からすれば、すでに先行きは暗いのかもしれない。この歳でこの程度の評価では、すでに結論は出ているという社会的な烙印を押されているに等しい。しかしながら人生はそんな…

やっとわかった。 そういうことだったのか。 ストリート・スナップの写真群。かつてはモノクロが大半だったが、インクジェット出力環境の普及につれてカラーも増えてきた。ぱっと見、おもしろいのかおもしろくないのかがわからない。ということは、つまりお…