再現とは所詮使いっ走りなのである。代行としての再現に限るならば。
西洋絵画における、遠近法や階調再現を基盤とした写実的再現という様式が、カメラ・オブスキュラに拠ってあみだされ、さまざまな他の様式を制圧して全世界に君臨した顛末については以前述べた。19世紀は西洋絵画における写実的再現の完成期であり同時に崩壊期であろう。元の対象の身代わりとして、宗教的帰依やら世俗的権勢やら懐旧的心情やらいろんなものを届けさせられたり買いにやらされる使いっ走り、それが絵画だったわけだ。しかし、いつまでもガキの使いなんかじゃない、自立したいんだ、という欲求がだんだん嵩じてくる。そこで、かつての主人である再現対象を見限って、非再現的・非対象的な絵画という様式が発生する。そして絵画の自律性・純粋性・絶対性というお題目が唱えられるのだが、その運動の果てに非再現的な絵画は世間から孤立し、山奥の世捨て人と化してしまった。
そんな絵画を尻目にうまく世間を渡ってきたのが、対象という親玉に絶対服従の写真である。それは再現的絵画が打ち立てた世界的覇権と国際競争力をそっくりそのままかすめとり、主人に逆らわずに絶対の信頼を得て急成長した。ところが、写真でも次第に自意識の芽生えが生じて、従属を強いる支配者への反発心が出てくる。そして鑑賞対象としての写真という鬼子が登場し、再現の原理に乗りながらもただの使いっ走り以上の何かなんだぞと主張したがるようになる。はじめは、有用性のない対象、商品流通や報道や娯楽の役には立たないが、だからこそそれ自体が価値を持ち、鑑賞されるに耐えうるようなものを写真とすることで、有用性という経済的価値への依存から脱却しようとした。しかしそんなものはたちまち使いつくされて準様式として確立し、やがてそれをさらに再現して二匹目のドジョウにありつこうとするパシリ連中であふれかえる。忠実な再現に縛られていては限界がある。そこでソフトフォーカスの絵画調様式を持ちこんだり、処理プロセスを崩して階調を意図的に狂わせたり、いろいろ切り裂いたりつなげたり、ありとあらゆる手を使って対象からの独立を宣言しようとする。でも写真は絵画のようには親離れできない。対象を撮影している一般の写真は、対象を撮影している以上対象の奴隷の身分からは逃れられないのである。親に生き写しのようにそっくりなうえにそのスネまでかじっている二世の行きつく果ては、家業を継いで縮小再生産にいそしむか、さもなくば社会的ひきこもりしかない。かくして鑑賞対象としての写真は、親からひとり立ちできる非再現的絵画が僻地の広大なアトリエを根城とするのとは対照的に、都会の小部屋でネットにすがる今どきらしい末路を辿る。
しかし、なぜこれほどに再現への需要があるのだろうか。元の対象への需要のおこぼれにあずかるだけでそこまで君臨できるものだろうか。写真にされ、平面に落としこまれることによって、見えが変わる。そればかりでなく、再現であるということだけで元の対象とは別の価値を持つ、ということもなくはない。なくはないがごくわずかであろう。ある人物に面と向かってもさして反応しないが、その人物の写真やら映像を目にすると大いに興味を示すような層は存在するらしいが、例外的であると見なしてまったくさしつかえあるまい。山よりその山の写真をありがたがる人、料理より料理写真を好む人、本人よりもその人物の証明写真に重きを置く人、せっかく目の前に展示があるのにろくに見もせず、過去の展示のファイルばっかり見ている人、なんてのもいっさい無視してよかろう。
ひとつには、視点を限定されることによるわかりやすさ、がある。美術館の展示室の椅子でひとりで休んでいる人は、たいていそこに置いてある図録を見ている。目の前にその実物があるというのに。展示を見ずに印刷にかまけている人は、展示のどこを見たらいいのかわからないので、画像に見どころを教えてもらっているというわけだ。何を見たらいいかわからずに他人に選んでもらって、どう見たらいいかわからず文章と写真で教えてもらう。手取り足取り至れり尽くせりだ。そういった啓蒙的役割はあるかもしれない。また、建築写真や彫刻の撮影が当の対象とは異質の価値を持つのは、それが対象に対する視点の提示となっている場合である。しかしせいぜいが解釈的価値、かつて述べた楽曲の演奏解釈と同程度のものでしかなく、オリジナルを超えるものではない。再現芸術の限界である。
画像の氾濫は元の対象の経済的価値に基づいた市場的現象としてあらかた説明がつくだろう。しかし、なぜあんなにみながこぞって対象を撮影しようとするかについては理解できない。カメラつき携帯に撮らされている、といった市場経済的理由だけとは思えない。続きはあらためて。