議論のその後

先だっての阪根さんとのやりとりで得られた最大の収穫は、ずいぶん凝り固まってしまっていたと気づかせてもらえたことであった。
阪根さんが指摘なさった、「文脈や過去の作品に関係なく」「個々の問題意識において撮っている」写真家と、そうではなく、過去と文脈とを意識し、たえず新しいものを追いかけていって奇抜さに腐心する写真家との2種類がいること、そしてかくいう自分は後者であること、この2点をひとまずうけいれた上で話を進める。とはいえ、「凝り固まっていた」のは過去や文脈に対してではない。問題になったオリジナリティとも違う。
オリジナリティや新奇さという評価軸で鑑賞対象としての制作物をとらえる際に前提となっているのが、様式という考えかただと思う。ひとりの制作者やひとつの流派に属する一連の制作物を単純化・類型化して特徴的な様式を導くことで、それがオリジナルであるかとか新しいといった評価が可能になる。そして様式が明瞭な制作物は「理解」しやすい。
現在の鑑賞対象としての写真のうち、商業画廊や美術館でとりあげられるような部分の多くが様式のアイディア勝負になっているのは確かだと思う。また鑑賞対象としての写真の歴史的展開は様式の交代としてとらえられる。そこに登録されるためには独自の様式を確立する必要があり、しかもそれは素っ頓狂な独自性ではよろしくなく、独自であろうとするあまり文脈を無視しては、大向こうの理解のフレームから逸脱して相手にされなくなる。歴史的経緯なり同時代的背景といった文脈を逸脱しない程度の独自性にとどめなければならない。意識するにせよしないにせよ、あるいは好むと好まざるとにかかわらず、こうした路線に乗っかっているのが前述の「たえず新しいものを追いかける」側の制作者ということだろう。
「個々の問題意識において撮っている」側は、こうしたルールで走らされるゲームには参加しない。はず。独自の様式を確立するということを目的としているのではなく、別のところを向いている。たぶん。このような態度でなされる鑑賞対象写真のトライブとしては手持ちの街中写真がまず思い浮かぶが、その向こうを張るくらい昔からあり、隠然たる勢力を誇るものとして、f64系の造形的な写真の系譜があると思う。これらは現状ではことさらに様式のオリジナリティを追求するものではないが、ならば様式とは無縁かというとそうではなく、「ストリートフォト」とか「アメリカ西海岸系の風景写真」といった分類自体が広くいえば様式である。
「問題意識」のひとも様式と無縁ではいられず、鑑賞対象としての写真である限り、様式を定めずに維持していくことは難しい。一連の写真群に、なんらかの統一的な様式を見いだしにくいなら、それに代わる仕掛けを設けない限りは、その場その場の気まぐれな興味で撮影された雑多な写真の集積と見なされて「問題意識」のもとにとりくまれたものではないと片づけられるからである。写真群に一貫して見られる特徴的な傾向があるとしたら、それはなんらかの様式である。ただし、それはすでに確立されてしばしばもちいられる様式であるがゆえに、特定の様式をまとっているとはさほど意識されないだろうし、制作者も様式をとりたてて問題とはしていない。
手持ちの街中写真であれ、f64系の写真であれ、奇抜さで勝負しようとせずに「自分の問題意識で」なされている写真というのは、ある程度定着した様式を選択して、その様式の中で何かを追求しようという態度だと思う。既存の様式を改変しようとしたり、様式そのものを新たにあみだしたりしようとしないのは、確立された様式の中に安住するということだろう。「たえず新しいものを追求しようとする」制作者は、既存の様式に対する疑いから出発するが、「個々の問題意識において撮っている」ひとはみずからが採用した様式自体を疑いはしないし、それを壊したりひっくり返そうともしない。あくまで、モノクロの街中風景という様式、モノクロの自然風景という様式という枠の中でのとりくみとなる。ただし、そのためには、その様式の懐が深く、さまざまな可能性を包含していて、すぐには汲みつくされない必要がある。そして、ことさらに様式を更新することを目的としているわけではないが、独自のとりくみの過程で、その写真家ならではというオリジナリティある様式が次第にかたちづくられていく。
このように、冒頭で掲げた2つの立場の相違は、様式自体を更新し続け、ひとつの様式にとどまらずにたえず様式を変転させることをよしとする態度と、様式をことさらに問題にせずにその様式の中でみずからの関心を追求する態度、との対比ともいいかえられるだろう。
 
ただ、ここで疑問がわく。このように全部を様式で整理してしまっていいのだろうか。芸術的制作物を様式に還元しようとするここでの態度自体にも問題があるのではないか。
純化して考えると、オリジナリティと新奇さのみを基準として芸術を評価する立場からすれば、芸術は様式に還元される。そして芸術史は様式の変遷史となる。様式が最も重要だという立場。
その逆に、芸術の様式を何かの器だと見なす立場がありうる。たとえば、芸術は戦争批判とかいうような社会的メッセージを伝えるための手段であり、そうしたメッセージをいかに的確かつ正しく表出できているかをもって芸術的制作物を評価するような立場。40年くらい前の評論にしばしば見られたもの。見た目の様式などは些末事であって、真に重要なのは芸術を通じて表出される何かだという立場。
いずれもどこか欠けているのではないか。どちらも当の制作物をないがしろにしている。
様式よりだいじなものがある。うっかり忘れていた。阪根さんはそれを「質」とおっしゃるのだろうが、これについてはよくわからない。
様式への還元からとりこぼされてしまうもの、それは何かというと、他ならぬ個々の写真であった。それぞれの写真こそが重要なのである。いうまでもなく。様式とは抽象化である。抽象には、その裏面として必ず捨象がともなう。様式という抽象化で捨象されてしまうのが個別の写真である。それは「コンセプト」重視の姿勢からも抜けおちてしまうものである。
それぞれの写真がもっともたいせつだとずっと思ってきたものだったのだが、様式のオリジナリティに執着するあまりに見失っていた。今回の議論で思いいたったのは、オリジナリティにかまけてしまうと様式への還元に陥ること、そして自分にもその傾向があるということであった。
様式偏重の姿勢は、「コンセプト」の重視が言語的還元の帰結であるように、視覚的な還元主義なのだろう。言語的に抽象されたのが「コンセプト」、視覚的に抽象されたのが様式。いずれも眼前の写真の手前なり奥なりに仮構されたもの。
同じ様式やコンセプトに属する写真でも、より価値があると見なされるものとそうでないものがある。その判断はある程度共有されうる。かつても述べたが、コンセプトや様式を至上価値と考えると、これは説明がつかない。
阪根さんのおっしゃる「質」とは個別の写真に則するものだろうか。それもわからない。写真を評価するにあたって、なんらかの抽象化された価値の尺度は不可欠だろうし、ある制作者の一連の写真群について考えるにあたって、そこに連続性を認めようとすると、個別の写真から離れた仮構を想定せざるを得なくなるのだが、それが過度に振りかざされると、個別の写真が隠されてしまう。
阪根さんがとりあげられたギャラリートークの出演者の1人が何度も強調していたのが、写真が問題なのであって、それを通じて何かをいいたいんじゃない、とにかく写真を見てくれ、ということだった、いや、そのように理解したが、自分が昔から言ってきたのもそれである。写真を離れて、その奥やら手前やらに何か別のものを見るのではない、ということだ。様式であれ、文脈であれ。
様式と切り離して鑑賞対象の質を考えることが可能なのだろうか。それよりも様式と鑑賞対象とを切り分けることができるのだろうか。様式は不可分に写真内容を構成しているのではないか。写真と別に様式を考えることはできるだろう。だが、様式は写真から切り離せない。むしろ、個別の写真と分断して様式のみを俎上に上げるがために上のような事態に至ったのではないか。様式が悪いのではなく、個別の写真を等閑視して様式ばかりをあげつらい、様式のオリジナリティを目的化することに問題がある。
上で述べた2種類の写真家の対比は間違いでも無駄でもないだろうし、「様式」という観点から見たそのような見取り図はありうるとは思うが、ありうるとはいえこういう俯瞰的態度をわれわれがとるべきではなかった。
 
抽象化によってこぼれおちてしまうもの、それは直接には眼前にある当の写真なのだが、特定の時に特定の場所で撮影した、ほかならぬその写真、おきかえのきかないその写真ということである。これは、写真に個人的な記憶を仮託する情緒的な思い入れではないかと思われそうだが、そうではない。
特定の時という条件に結びつけられるような要素が、人物や出来事の写真ならともかく、建築物など動かない対象を撮影した写真にあるのだろうか。ある。天候、日の高さなど日照条件、時間帯による色温度、その時でなければ撮れなかったと述べるに充分な写真の条件はいくらでもある。しばらくたつうちに近隣に別の建物ができて邪魔になり撮影できなくなってしまったりする。そうした制約ととっくみあっているという日々の現実が、個別の写真を存立させている。
抽象化の果てにあるのはCGだろう。特定の場所や日付といった現実の支えに依存しない画像。現実的対象を撮影した写真であっても、そうした傾向の写真はあるだろう。スタジオで、匿名的時間の中で撮影された写真。限定された条件に属さない写真。あたかもクリーンルームで生産されたかのような。それは、写真の個別性を排した写真なのだろうか。だとすれば、様式への還元が可能かもしれない。
だが、今やっているのはそうではない。現実の条件と格闘し、いたるところそうした現実の刻印がある。制約だらけで、意のままにコントロールなどできていない。通行人の影もあればさまざまな欠陥もある、そうした個別性に貫かれた、あのときのあの写真である。これが個人的な感慨ではないというのは、客観的に記述可能な現実の過程があって、それが共有可能だからである。その過程をいくばくかでも共有するために、この撮影日誌を綴っているのではなかったか。こうした個別性に立脚する写真を抽象化しないために、こうしてそれぞれの写真の出自を確認しているのではなかったか。様式化・類型化はあとづけの、しかも上からの整理だろう。それを現場の人間が率先してやっていてどうする。様式は単純化されたモデルであり、あとからくるものである。様式が先に立ってはならない。いろいろ思うようにいかないこともあり、ついうかつにもこれを転倒させてしまっていた。
個々の写真のおきかえのきかなさとは、あの日あのときの感興を呼び覚ますから懐かしくて滋味がある、などといった湿っぽい話ではない。そのときどきの具体的な現実と不可分に結びついていることが写真に根拠を与えているという、そうした写真のありかたを述べているのである。まだうまくいいあらわせないのだが、多くの写真を様式で十把ひとからげにしてしたり、それぞれの写真であっても、構図や配置に還元したら失われてしまうような何かである。むろん、アウラがどうこうといった話ではない。
この個別性があるから写真を続けていける。これがなくなったらやってはいけない。スタジオなりディスプレイの中での作業としてなら可能かもしれない。しかし、時間をかけてわざわざ遠くまで出かけていって、でも間に合わなかったり、天候に恵まれなかったり、機材を忘れてどうにかやりくりしたり、フィルムが足りなくなって天を仰いだり、露出で失敗したり、通行人にじゃまされたり、警備と戦ったり、時機が訪れるのを何時間でも待ちつづけたり、こうした現実のさまざまな障壁と格闘しながらつくられる今の写真は、現実との臍帯が命綱なのである。こうした労苦がありながら、それをなかったことにして涼しい顔で抽象度の高い写真を続けていけるだろうか。自分にはまず無理だ。以前はすべてを思うままに管理した完成度を求めていたが、ある時期からそうではなくてもいいと思うようになってきた。生身の現実に根ざしている写真をやっているのに、その痕跡をわざわざ消去しようとするのは、どこか無理をしている。レタッチが簡単ではない旧来型の引き伸ばし工程を使っているのもそうしたことの一環ではなかったか。撮影にまつわる労苦を自慢したいのではないし、苦労したから価値のある写真だと主張するわけでもない。泥臭く汗臭い制作過程を強調するつもりはないが、かといって隠すものでもない。このような現実のいきさつがあってはじめて成立している写真だということを述べているのである。それがわれわれにとっての写真の豊かさである。
長いことやっている間に変な写真ばかりをめざすようになってきて、これ自体は当分変えられそうもないし、こういう写真があったっていいじゃないかとも思うが、様式ばかりに関心が向いていたのはよくないと思わされた。この1年ばかり、ほとんど他人の写真を見ることもなく人と会わずにやってきたのでだいぶ凝り固まっているようだ。最近人と会う機会がちょくちょくあって、がちがちになっていると気づかせてもらった。この日誌と暗室にこもってばかりいないで、外の空気を吸うようにしよう。