写真の周辺にあるもの、比喩ではなく現実の話

雨上がりだが巻雲や高積雲が盛大に広がる。ひきつづき器の組み立てなど。たぶん定規での計測を誤ったのだろうが、5mmほど短く切断してしまっていた。手間のかかる仕上げの工程はまだなので、また買ってきてやりなおすかとも考えたが、試してみるとゆるいものの使えなくもないのでこれで行きそう。さしものスーパーXも塩ビには弱い。端っこがかさぶたのようにはがれてくる。
カラーネガのシートフィルムの自家現像だが、4x5をKodakのNo. 4ハンガーで現像するとクリップ痕がつかなくなる。No. 6なら軽くつくが、それ以外の自家現像での選択肢、バット現像にしろ、ロータリーチューブにしろ、はたまたコンビプランやYankeeなどの現像タンクにしろ、深いクリップ痕はつかず、せいぜい乾燥時に吊り下げるためのクリップの微かなキズのみ。穴が開くほどの痕が残るのはラボでの大規模タンク+クリップ留めの処理の場合だけである。
ネガをフルフレームでプリントする場合に、このクリップ痕が、フィルムというマテリアルの符牒としての役割を担っていた。80年代末に小林のりおの「トポグラフィー」やアナ・バラッドなんかの大判フィルムからのプリントを見て印象に残ったのは、そこに写っている内容にもまして、黒フチと4隅のギザギザの穴ぼこだった。大判フィルムを知らなかったということもあって、写真とは物質であり、しかも、これまた物質であるフィルムからの再結像であるというまぎれもない事実、それまではイーゼルやトリミングで覆い隠され、「現実を忠実に再現する」という写真の約束事を台なしにしてしまう夾雑物として遮蔽されてきた写真の素性、これを突きつけられたのが新鮮だったのだ。やがて黒フチつきプリントも陳腐化していき、送り穴が開いた35mmフィルムのよくある絵柄と同様、演出上の小道具として完全に紋切り型となってしまった。シートフィルムの黒フチが、35mmフィルムのパーフォレーションのごとくに図案化され、写真を意味する記号のように用いられた嚆矢としては、平野甲賀装幀のスーザン・ソンタグ著『写真論』の和訳が思い浮かぶ。ただし4隅のクリップ穴はついていない。1979年の刊行当時、このデザインの意味を了解したひとは一部だったと思われるが、その後10年以上たって、あれだ、と広く認知されるようになってきたのではないか。つまり、写真家たちが黒フチつきプリントをしきりに行うようになり、『Switch』あたりのカルチャー誌や関連の広告などで4x5や8x10のポジフィルムを黒フチつきで掲載するのが流行して以降である。だが一周めぐって、LPやカセットテープの図像が再生音楽の記号たりえなくなったように、パーフォレーションも「何それ」の彼方に霞みつつある。シートフィルムの黒フチについても、陳腐化自体が氷解してしまったかに思える。
黒フチつきプリントでも述べたように、写真のメディウムを問題としているという意識から、2002年の個展以来ほぼすべての展示でフルフレームの黒フチつきでプリントしている。ただクリップ痕がポピュラーな4隅のギザ穴になったのは、クリエイトが4x5ネガの社内処理をやめて日本発色に出すようになった2008年初め頃以降で、それまでのクリエイト新橋、その前は水道橋での処理では短辺中央に1つずつの計2穴、さらに前には2003年頃まで練馬区貫井コニカカラーイメージング、そして2001年までの昭和天然色での、ノッチの並びの角とその対向辺中央の2穴だった。だから、これまでほとんどの期間、4x5ネガはクリップ痕がついてはいるのだが目立たないという処理でやってきて、2008年以降ようやく、4隅にギザギザのついた、小林のりお田村彰英のプリントで見慣れたあの形状で出せるようになったのだが、そこでクリップ痕をなくしてしまうのは、ちょっともったいない気がしなくもない。しかも黒フチに至っては……。4X5フィルムであるとかろうじてわかる符牒はノッチくらいしかないが、ほとんどのひとには通じないだろう。それでいいんだろうか、と考えてみるに、そこはもうどうでもいいかな、ネガのクリップ痕なんてたいした問題ではない、というふうに傾きつつあるようだ。