やけどから1年経過した。
ライトスタンドとライトホルダー等を預け先から回収。道具というのはみだりに処分するものではない。長いこと使わなくても、寝かしていればいつか使うこともある。ただ売り時というものもあるので、確実に不要と思えてしかも値が張るものだったら、早めに売ったほうがいい。大判レンズは売り時を逃してしまって、だいぶ相場が下落している。脱「写真」に踏み出すのが遅かったか。
アナログオーディオプレイヤーや往年のピュアオーディオのアンプはそれなりの値段を維持しているのだが、銀塩写真機材はどうなるのだろうか。
ヴィンテージオーディオ機器の場合、LPレコードやSPが残っていて、電源さえあれば、基本的にはずっと聴き続けられる。カートリッジの針やスピーカーの振動部分は消耗品だが、なんとかなるだろう。保存条件が同等なら一般にLPの寿命のほうがCD特に前世紀のより長い。LPはカビがついたり反ったりするが、どちらも致命的ではない。磨耗するとはいってもストックは充分にある。しかし剥離が起こったCDは救済できない。しかもこれは歳月を経れば不可避的に発生して、みんなやられるからストックも残らない。
ところがアナログのカメラは過去の資産で使うものではなく、新品のフィルムが供給されるか自作できないことには、未露光フィルムにはLPのような長期保存耐性もないのだから、ただ鑑賞するだけの骨董品になりはててしまう。各種トロピカルカメラは実用品として使われなくなっても、仕上げのよさから骨董品として珍重された。現在でも愛好者がいて売買されている。そのような愛玩品としての蒐集の習慣は以後の各種カメラでも同様に確立されている。そうではなく、稼動状態でありつづけ、実用品としての価値を維持する機種はあるだろうか。
モノクロ感材は小規模メーカーでも生産できるので細々と供給されていくだろう。最後まで製品として残るのは35mmフィルムだろうが、100年後に現在のフィルム式35mmカメラが動くかは疑問である。まず電池が厳しい。コンデンサなども劣化する。電池なしで動作するカメラで、修理技術が伝承されて補修部品が入手できるとしても、樹脂部分は経年劣化の可能性がある。遮光布やモルトプレーン、粘着剤、接着剤は交換できるが、部品自体がプラスティック製だと代替品の調達は容易ではない。金属部分も銅や銅合金は錆びる。
しかしながら、古典印画法は工芸として版画のように継承されていくだろうから、その原板を撮影するという需要も残ると思われる。おそらくは数世紀にわたって。人類と文明と現状の化学薬品の製造流通体制が存続している限りでは、だが。
そこで活躍するのは大判カメラである。大型のフィルムならハンドコートも可能だ。湿板写真はみなそれでやっていたのだから。機械式シャッターの機構は単純だし、必要とあれば自作もできる。低感度で絞れば手動シャッターでも充分。レンズも大きくて構成が簡単だから、曇ったって解体再研磨も容易。どの部分も手作業で補修できる。
とはいえ、参加人口は縮小していくだろうから、ヴィンテージオーディオのように30年後に相応の値がついているかはわからない。大量生産品はまず残らないし、4x5程度ではあまり残りそうもない。高額で取引されるのは11x14以上の大型の木製カメラ、特にWisnerやEbonyなどの20x24といった巨大カメラと、それをカヴァーする大サイズの古い製版系バレルレンズ、あるいはこれのようなほとんど数が出ていそうもない高価なレンズだろう。このレンズはオーナーの名前を無料で刻印してもらえるという。少量生産の手工芸品そのものである。
そして、その時代には、写真が金持ちの優雅で手間暇かかる道楽であった、前世紀初頭の消費様式が復活するわけだ。写真が貧乏人の娯楽になりさがっていくこの30年ほどの傾向はすでにデジタルが受け皿となっているが、それが進んで画像はデジタルデータのままで完結するようになり、タダ同然の空気のようなものと化すだろう。金をつぎこんだごく一部の工芸と、大多数の、メモ用紙とか景品のボールペン程度の使い捨て品の二極に分化していく。ピュアオーディオというジャンルが廃れて国内のオーディオ専業メーカーはほとんど退場し、一般大衆はオーディオにもソフト消費にも金をかけなくなったように、カメラ製造という産業や周辺産業も消滅するかもしれない。