どこもかしこも「物語」

ひさびさに銀座の画廊をまわる。だいぶたたんでいて、新しいところもできてるらしいが場所がわからない。
貧困にあえいだとか夭逝したとかいった制作者の物語の消費が主で、肝心の制作物は物語の口実程度というのが、この国で美術が受容されるさいのもっぱらだが、それはこの国に限ったことではなく、欧米の美術館で観察するところどこでも程度の差はあれそんなものらしい。
それなら美術品を並べた上でそれにまつわるエピソードやら鑑賞の手引きやらを別途用意するなんていう面倒な手続きを踏むよりも、美術品自体にその物語をあらかじめ乗っけておいたほうが、制作者も流通業者も観客も手間と時間とコストが省けて手っとり早いではないか。
というわけで制作者の営為の痕跡を制作物内に漂わせることが推奨されるようになった。それなら説話媒体のほうが効率的。で一時「映像」なるジャンルが出回ったわけだが、専業にくらべてあまりにお粗末な出来なのと時間がかかって疲れるのとでもうすっかり下火なのかと思っていた。でも有名画廊で有名外国人のがかかっていて、見えすいてるのに大勢の客がおり、あいかわらずフィクションでもそうでなくても底の浅い物語が好まれるのだなあと思ったことであった。
下に広告が出ている通り映像関連のいわゆる「クリエイター」様の求人はまだ多いようだが、誰でもが容易に制作配布するようになってジャンルとして飽和し、いずれごく一部を除いては食えないありさまになるだろう。写真撮影業者や音楽関係業者、古くは専業著述者と同様に。もっともそれらの業種で多くが繁盛していた時代というのもごく限られた短い期間なのだが。
地下の重苦しい画廊に行けば、これも10年1日のげんなりするような情念系。メーカー系ではもうすっかり伝統芸能と化した古都の情緒纏綿たるモノクロ写真。非常に巧みであいたたた。どいつもこいつも物語をまとわらせたっぽくすればいいと思ってるらしい。ただただあほくさ。
ありふれた安手の物語がまずあって、それをなぞって制作していくという転倒。物語を排除しろというのではなくて、あとからそれとなくたち現れるものであってほしいと思う。それが主役になってこれでもかと声高にとなえられては辟易するしかない。もっとすっきりできないのかね。物語の押し売りの隆盛も「コンセプト主導型」やら「何が言いたいのかをはっきりさせる」やらの弊害だろう。たえず「言いたいこと」を尋ねられ、ことばで組み立てていくよう指導されていたら、経験と個人史を引き合いに出して物語に訴えるようになるのは当然のなりゆきだ。
ひいては美術の紹介の啓蒙的システム、さらに芸術が「教育」されてしまうことの根本的な問題、はたまた、単なる商品にストーリーをまとわせて売るとかいうご大層な「マーケティング」にいきつくのだろうが、そういうのは関心の埒外
 
旅行への出発から1年たった。この1年はなんだったのだろう。
これも物語といえばそうだ。でも、そこから逃れたくてやってるわけで。
有楽町でロールレフを見るが、Suntecは白レフに樹脂コーティングがされていて反射光の質がよくない。Photoflexもラメっぽいしきれいに張れない。KingとKPIのは秋葉原にもここにもない。