写真と物語

10年ほど前にはやったMoMA教育部門出身のアメリア・アレナスの対話型美術鑑賞法には、明らかに向く対象とそうでないものがある。彼女は関心のない美術品に対しては素通りだったらしい。言語化されにくい美術品は間違いなくあるわけで、そういったものを排除してしまうのはこの方法の限界であるはずだが、当時そういった指摘は見られず、美術普及活動の起死回生策とばかりに絶賛の嵐だった。語りやすさが評価にすりかえられてしまう陥穽は、アレナスに限らず米国的美術受容流儀に広くつきまとうといえるだろう。その後10数年、この国でも米国流がスタンダードとなり、言語化されることを念頭に置き、説明のいきとどいた制作物が幅をきかすようになった。
しかし、そうした言語的明確さに立脚する米国的態度も、限界をわきまえればきわめて有用である。
先日、美術に物語を求めるのは日本ばかりではないと述べたが、やはり日本は特殊だと思う。一連の写真を並べて物語が構成されていればよしとするような評価の尺度は、日本特有ではないかと思える。米国では写真を言語的に解釈する訓練を教育課程で施すようだが、1点の写真を前にして、はっきり目に見える要素を記述し、画面構成を分析してよしあしを判断するという、明確に視認可能で誰とでも共有できる部分を対象とした言語化であって、全体を通しての物語の流れとか情感とかいった曖昧なものは、見たかぎりでは問題とされていなかった。全体を通しての意図は俎上に上るが、印象ではなく根拠を示し論理的に議論される。デュエイン・マイケルズのようにはっきりとした筋立てを持つ写真群はあっても、一見関係のない写真を併置して、そこに写っていない流れを想像させてドラマを演出したり、とりとめのない写真の組合せで間を読ませるような「組写真」というしくみはなさそうに思う。海外の直接的で明確なCMと違って日本のそれがとらえどころがなくて文脈依存度がきわめて高く、外国人には理解されにくいのと同様に、複数の写真で物語を構成しようというのも日本独特の伝統ではないだろうか。
米国は特に、ギャラリーやネットで見ても、1点の画像の訴求力を重視する傾向が強いように思える。それは当然であって、商品として売るなら単体で成立している必要があるし、ネットで多くの相手に訴えるには、だらだらと何枚も見せていたのでは埒があかない。
静止画像である写真では説話への適性が元来低いのであって、造形的に瞬発力で見せるほうが向いている。商業目的でも鑑賞目的でも、米国ではそうした適性が充分に活用されていて、もっともだと思う。説話的用途には動画なりもっとそれに適したメディウムを使ったほうが効率が高いに決まっている。
もともと物語を乗せるのには向いていない写真を、それでもストーリーテリングに使うという用法も、鑑賞対象の写真のジャンルではあっていいとは思う。しかしそれが主流として抑圧的に働くのはどんなものか。何しろ、そうした物語性がないと見た目ばかりで薄っぺらになるというのが日本の写真界の共通認識らしいのだ。これまで何度、それで粛清されてきたことか。
なぜそうなるのか。ヴィジュアルで他と対抗できる強さを獲得できないから、物語に頼ってしまうということがある。そしていつしか物語が母屋を乗っ取ってしまった。
それだけではない。文学に対する引け目だ。
「写真には文学性がなければならない」などとこれまで何度か聞いてきたが、あきれるほかない。だったら文学やりゃいいじゃん、とつっこむ意欲すら失せる。美術もそうだろうが、この国の写真というジャンルに蔓延する、文学をはじめとする文字文化に対する劣等感には救いがたいものがある。わが身も含めて、なのだが。
とにかく、こんな「写真」に対しては、さっさと抜け出すに如くはない。