オリジナリティの追求にとらわれているといった指摘をあるひとから受けた。
それはその通りだ。先刻承知である。
オリジナリティを金科玉条とするのはもう古い、今のひとはそういうモダニズムにはもう縛られていないのだと。
そうなのかもしれない。だが古いやつにも言い分はある。
 
モダニズムとは過去の否定であるという。
一見したところではそのようにも思える。
モダニズムはオリジナリティと新奇さの追求を旨とする。オリジナリティや新奇さを追求する態度が、過去に提示されたものの模倣や反復に対して価値を認めないのは確かだ。
しかし、これをもって過去の否定とするのは早計である。
だって、古いものを知らないことには、新しいかどうかなんてわからないではないか。そのジャンルで積みあげられた蓄積を踏まえてはじめて、オリジナルなものや新しいものの判断が可能となる。オリジナリティと新奇さの追求は、過去の遺産を知悉していてつねにそれを顧慮するからこそなりたつのでありわれわれがそれを実現できているかではなく、そうした理念について述べている、歴史が整備され誰もがそこにアクセスできるようになってようやく可能となった態度なのである。まさしくモダニズムであり、それは歴史的意識に基礎づけられている。それどころか、今や過去の重荷に喘いでいるとさえいえる。
これを単純に過去の否定と呼べるのだろうか。
オリジナリティと新奇さに重きを置くことを放棄したのちに、何が残るのか。ある制作物について、かつて似たようなことがなされていたとしても、その時代の文脈に置かれることで新たな意味が付与されるという。そのつど新たな価値を文脈から補ってもらえると期待できるなら、制作者は二番煎じを避けようと落ち穂拾いに追いこまれずにすむ。なるほどそれは健全だ。過去の遺産をたえず意識する必要もなくなり、歴史的経緯への軽視へと至るだろう。過去の忘却である。
それこそが過去の否定ではないのだろうか。
 
確かに、オリジナリティと新奇さを追求する態度は袋小路にいきつく。こうした閉塞感は諸鑑賞対象ジャンルを覆い尽くしているだろう。
オリジナリティと新奇さが価値判断の基準であれば、いずれ、アイディア倒れの、目新しさだけがとりえのガラクタばかりが量産されることとなる。だが、オリジナリティと新奇さという、ある程度客観的かつ普遍的に共有可能な価値判断の基準をしりぞけ、「質」という曖昧模糊とした価値軸を立てるなら、その「質」を保証する根拠はどこにあるのだろう。結局のところ、時代の移ろいゆき次第でいかようにでも揺らぐような趣味判断に帰するしかないのではないか。そこでもてはやされるのは、時代の波におもねるもの、流行物ではなかろうか。
オリジナリティと新奇さを追い求める限り、がんじがらめである。すでにあるものとかぶらないよう汲々とせず、おおらかに自分のやりたいことをできたら楽しかろうとも思う。だからといって、2世代前の泰西名写真に戻れるだろうか。ネット上にあふれかえっているスナップに埋もれながら、なおも続けていけるだろうか。依然として、他との線引きは必要となる。程度の差はあれ、オリジナリティや新しさという指標を抜きにしてはなりたたないのではないか。
さらにまた、過去になされてきたものの模倣や反復を否定するという態度は、他人によってなされたものばかりでなく、みずからの過去の所産に対しても向けられる。むしろこちらのほうが苛烈で重い。多くがその重圧に耐えられず、一発屋のまま「次」を提示できずに消えていく。モダニズム的なオリジナリティと新奇さの追求に縛られていないというひとびとは、はたしてこの隘路から逃れられるのだろうか。隙間ねらいでなく自発的に見いだされた「やりたいこと」だとしても、それがいつまでも「やりたいこと」であり続けるとは限らない。遠からず、やりつくすか飽きるか自己模倣に陥る。自己模倣を延々と反復しても耐えられるのは、それで対価を得られる立場となったお歴々だけである。
オリジナリティに依拠する度合に差はあるだろうが、鑑賞対象としての写真を提示している以上は、誰しもオリジナリティの追求と無縁ではないだろうから、そこで古いのどうのと断罪されるのはちょっとなあ、と思ったことであった。