一昨日の記事でのご指摘をくださった阪根正行さんからお返事をいただいて、それに返信したので、そのやりとりの内容を整理し手を加えて掲載しておく。なお阪根さんのブログでもこのやりとりについて言及されている

こんばんは。
メールありがとうございます。
 
ブログ拝読しました。
この問題って結構大きな問題だと思います。
写真に限らず、建築も小説も、どうも00年代というのは静かな時代だった(新しいものが出てこなかった)という閉塞感が支配しているように思います。
 
僕は元々建築をやっていたので建築の話に置き換えてしまうのですが、平井さんのスタンスは建築で言えば「伊東豊雄」、「妹島和世西沢立衛」と重なるように思うのです。とにかく新しいものを目指して試行錯誤して創っていこうと。それで建築で言えば、曲面構造の空間や、壁厚がおそろしく薄い住宅など、今までになかったものが飛び出しました。確かに歴史に名を残す名建築です。
 
ただ問題もやはりあります。何かみんながネタを競い合うような感じになってしまって、建築の本質的な問題を置き去りにしてしまっているようにも思うのです。「確かにこれは今までになかった空間だけど、ここの床は平らでもよかったのではないか」とか「シャボン玉の合理的な分子の構造がこういった形態だからといってなぜそれが建築の形になってしまうのか?シャボン玉と建築ではスケールも重力の条件も全然違うというのに、、、」といった根本的な疑問がどうしてもつきまとってしまうのです。
 
だから僕も建築の時はちょっと逃げというかナイーブな方向へ舵を切ったというか、数寄屋建築をやっている事務所に勤めたのです。おそらく数寄屋で言えばすでに技術が確立されていて、今はもう昔の技術水準に追いつくことはできず新しいものは生まれない。ただ、僕自身のことを考えれば、海外の最新の建築を追っかけて、それを前提に何かを創るのではなく、自らの手をとにかく動かしながら創ること、感覚を掴むこと、そういった鍛練のなかから新たな方向性を見出していこうと考えたのです。つまり「質」を獲得しようとしていたのです。
 
しかし、ここは平井さんのおっしゃる通り。「この「質」をどうやって評価基準として確立させるのか?」という問いに答えるのは物凄く難しい。それこそ小林秀雄ではないですが「見る人が見れば分かる」といった特権的な独断的な言い回しになってしまいます。そのあたりは僕もごまかしつつ、しかし慎重にやっています。
 
今は、建築の設計は辞めて、文章で勝負していますが、基本的にこの時のスタンスでやっています。だから例えば山方さんの写真を観る場合でも、過去にどういう作品があるかは全く考えずにまず写真だけを観て何か読み取れないかと必死にみます。するとやはり色々と発見があります。彼らぐらいのレベルの写真家であれば、どのようなスタンスであれ、何かしら観る側にとって新たな発見があります。
 
そして、僕も、また山方さんや村越さんも《オリジナリティ》をどうでもいいとは思っていません。平井さんとは違う角度からからかもしれませんがちゃんとアプローチを試みています。
 
僕は《オリジナリティ》の問題の核心は「自律性」にあると考えています。極論で言いますが、《オリジナリティ》というのは何かに依存していてはダメです。つまり過去の作品を模倣するのは論外ですが、過去の作品を調べて、過去にないものにオリジナリティを見出すという発想もダメです。なぜなら、すでに過去を前提に考えているから。
 
また逆に「過去の作品を全く見ないで写真を撮れるのか? 山方さんにしろ、村越さんにしろ色々と写真を見ているではないか」という平井さんの反論も成立し、これはこれで論破できません。
 
ただし、これは問題設定がそもそも間違っているのです。なぜなら《オリジナリティ》は、「孤立」や「自立」ではなく「自律」に基づくからです。「自律」は他の作品との接触を許容します。ただし依存ではやはりダメです。このあたりの説明がかなり難しいのですが、僕はそれを、芸術作品であってもスポーツを引き合いに出して説明するようにしています。(最後に添付した文章をご参照ください。)
 
 
僕の立場は、平井さんから見れば曖昧だと批判されるかもしれませんが、僕は平井さんのスタンスでも新たな作品、写真史に名を残すような傑作が生み出される可能性があると思いますし、それと同様に、山方さんや村越さんのようなスタンスでも今後、写真史に名を残すような傑作が生み出される可能性があると考えています。
 
どうしても一歩引いたスタンスでずるいのですがご寛容ください。平井さんの作品もホームページで興味深く拝見しました。展覧会を開催する場合は必ず行きます!
 
 
私は写真は撮らず文章だけですが、今後もご指導賜りますよう宜しくお願い致します。
 
 
最後に少し長いですが、展覧会の小冊子に書いた文章から《自律性》に関わる箇所を引用しておきます。
 
 
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■ ふたりの《メタモルフォーゼ》
 
さて、村越についてはターナーを、山方についてはセザンヌを引き合いに出して説明しました。ただし両者ともそれぞれの画家を下敷きにして写真を撮っている訳ではありません。両者に言わせれば「なるほど。言われてみれば考え方が近いかもしれない」という感じでしょうか。
 
ここで注目したいのが、「ながめる、まなざす」展に出展されている写真についてです。出展されている写真は、「風景」という共通テーマを掲げているにも拘わらず、写真家によって全然違います。この様子をみても、時代の流行や傾向があってそれに写真家が乗っかっているとは思えませんし、誰か先行する作家をみんなが意識して撮っているようにも思えません。文脈や過去の作品に関係なく、個々の写真家が個々の問題意識において撮っていると言わざるを得ません。
 
このような状況に相反して、例えば、先の日高優さんの著書(『現代アメリカ写真を読む』青弓社)のようにある写真を過去の写真群から導きだした文脈に沿って理解する方法が有効な場合もあります。また「この写真家ぐらい知っておけよ」とか「それはすでに○○がやっている」と写真家に対して言いたくなる、写真家の不勉強を指摘する声もしばしば聞かれます。しかしそれでも私は、文脈や過去の作品に関係なく、個々の写真家が個々の問題意識において撮っているという状況は好ましいと考えます。
 
スポーツに例えると分かりやすいのでスポーツの話をしましょう。過去の作品、作品史を重視するというのは、野球で言えば、過去の名選手をひっぱり出してくるようなものです。「王、長嶋はすごかった。江夏はすごかった。それに比べて今の選手はダメだ」と言うように。その気持ちも分からなくはないですが、選手の立場からすればおかしな話です。「王が一本足打法だったから、オレも一本足打法にする。江夏が左投げだったからオレも左で投げる(あるいは逆に、王が一本足打法をやったからオレはやらない。江夏が左投げだからオレは右で投げる)」ということはあり得ません。
 
過去の事例を研究することとある技術をモノにすることとの間には飛躍があります。創作という観点で言えば、重要なのは「知識」の豊富さよりも、しばしば「知恵」と言われたりしますが、いかにして自分の感覚とすり合わせるかです。つまり選手(作家)は手探りで、いろいろと試して、一本足打法も試したりして、試行錯誤のなかで自分のスタイルを確立していくのです。そんななかで稀にイチローのような突出した選手が出てくるという訳です。「王、長嶋」といった確固とした答えがある訳ではありませんし、イチローに対して「王、長嶋と違うからダメだ(あるいは逆に、王と長嶋と違うから素晴らしい)」とは言わないでしょう。
 
王、長嶋はすごかった。漱石、鷗外はすごかった。でも、彼らを徹底的に研究して真似ること、あるいはそれを回避することが、野球や小説という創作の現場、営為を支えているとは思いません。王、長嶋がいた頃に比べると野球に対する熱が冷めたという見方もありますが、今でも野球の試合が日々行われているのは、今の選手それぞれが野球に対峙し、試行錯誤をして取り組んでいるからです。そこに営みというか「生命」と言えるものがあるように思います。
 
ここで「生命」を《メタモルフォーゼ》と言い直して説明を続けます。過去にこういう偉大な作家がいた。過去にこういう作品があった。そういう先例を追いかける頭でっかちな作り方をしている人には、この《メタモルフォーゼ》は見られません。そういう作家は変化に乏しかったり、変化があからさまだったりします。《メタモルフォーゼ》は、意識的かもしれないし無意識的かもしれませんが、個々の作家が試行錯誤するなかでしか見られないものです。
 
またまたイチローを例えに出しますが、実はイチローの打撃フォームは物凄く変化しています。バットを立てたり寝かしたり、背筋をピンと伸ばしたり、ぐっと屈めたり、日々刻々と変化しています。自分の感覚にフィットするように、また様々な投手に対応するために、より精度を高めようとやっているようです。だだ難しいのは、これを「進化」と言ってもよいと思うのですが、だからと言って打率が右上がりという訳ではないということです。ハイレベルのパフォーマンスは維持しつつも、打率は上がったり下がったり常に変動しています。プロ入り三年目で210安打、自己最高打率.385を記録したときと今とでは、どちらが優れているかと問われても、単純には比較できないでしょう。それぐらい違っています。変わっています。このような一意的には捉えられない「変化」を私は《メタモルフォーゼ》と呼びたい。
 
そして、これは村越としやと山方伸の写真にも言えるように思うのです。つまり、村越と山方の写真が、同じ時代に同じく風景をテーマにして撮られた写真であっても全然「違う」ということ、また両者とも今回の写真がこれまでの写真と「違う」というのは、ここでイチローを引き合いに出して説明した《メタモルフォーゼ》の一例として理解できるのではないかと思います。

早速のお返事ありがとうございます。
 
……
 
 先日の席で、「過去の作品、作品史を重視する」型の仮想敵に私がなぞらえられて、
古い世代の考え方だと言われたような記憶があって
(すみません酔っていたのでよく覚えていないのですが)、
しかも以前に××さんからもそんなようなことを言われた気がして、
「そうだよどうせ俺はおっさんだよ」と居直っているわけですが。
 
でも、実のところは「過去の作品、作品史を重視」してないんです。
 
むしろ、過去と同時代の同じジャンルの他の制作物への違和感に
動かされているように思います。
 
こんなのばっかりじゃなくたっていいだろう。
もっと変な写真があったっていいだろうし、
こんな変な人間がいたっていいじゃないか、というあたりです。
 
……
 
ただ、現代美術のルールという靴のかたちに足のほうを合わせて、
どうにか社会適応性を身につけようとあがいてきた過程で、
この「違和感」を、オリジナリティと新奇さという
すでに確立された型に流し込んで成型したのでしょう。
 
それと、こないだは仮想敵の役割を振られたので、
あえてそれを引きうけて演じて見せたところもあるかもしれません。
実際には、他から規定されることでのみ、みずからのオリジナリティを
確立しようとしているわけじゃありませんし、
だいたい最近は他人の制作物に関心がなくてろくすっぽ見てません。
 
とにかく、「文脈や過去の作品に関係なく」やっているひとと、
文脈や過去の作品にガチガチに縛られたモダニストとかいうふうに
単純に線引きはできないんじゃないかなあとは思いました。
私がやってるわけでしたね。すみません。
程度の問題ではあれ、発表していく以上は、
誰しもみずからをとりまく環境とは無縁ではいられないんじゃないか、と思ったわけです。
 
それから、スポーツのたとえはどうもよくわかりません。
よってたつルールがまったく違うんじゃないでしょうか。
スポーツでは「自分のスタイル」ではなく、
それを通じて得られた結果によって最終的な評価が下されるように思います。
プロレスとかパフォーマンスの要素が強いジャンルは別でしょうけど。
でも、芸術的制作物においては、「自分のスタイル」自体が評価対象となるか、
少なくともそれに準ずる主要な要素ととらえられるのが一般的でしょう。
「「王が一本足打法だったから、オレも一本足打法にする。江夏が左投げだったからオレ
も左で投げる(あるいは逆に、王が一本足打法をやったからオレはやらない。江夏が左投
げだからオレは右で投げる)」ということはあり得ません。 」
というのは、野球ではそうでしょうが、芸術でもそうだという理由がわかりません。
スポーツにおける「スタイル」を、その位置づけが異なる芸術にあてはめて論拠とするのは、
どこか論点がすり替えられているような気がしたのですが、
私の理解が間違ってますかね。
芸術でも「スタイル」よりさらに重要なものがあるという話でしたらごめんなさい。
 
それに、野球のことはほとんど知らないのですが、多くの選手は、自分の能力と、
チームの戦力構成とを考えて、どの役どころなら生き残れるか、
自分の適性を生かせるのはどこか、といつでも考えているんじゃないでしょうか。
そして、ポジションを移ったりショートリリーフや代打になったり、
打撃スタイルを長打者から変更したり、
このチームでは別の選手とかぶって出番がないとなったら
他に移籍したりするんじゃないでしょうか。
イチローだってマリナーズに入団するときには
そういう条件を充分に計算しただろうと思いますよ。
シーズン最多安打ねらいにもそういう戦略があったんじゃないでしょうか。
 
勤め人であれ自営業者であれ経営者であれ、みずからのおかれた環境とみずからの持ち駒で
いかに生きのびていくかを懸命に考えていると思います。
それを、周囲を窺っているからずるい、とはいえないでしょう。
 
そうした意味で、写真家が過去と同時代の写真を参照しながらみずからの最適解を探す
といったことも時にはあっていいのではないかな、と思いました。
もちろん、そればっかりでは、おっしゃるようにダメだと思いますけれど。