情緒的・物語的傾向が強まったのはなぜか

もうひと月前になるが、2011-09-18のコメント欄で、nanjotoshiyukiさんと次のようなやりとりをした。

日本の写真展では「コンセプト」が個人的な来歴や経験談や所感という「物語」にすりかえられてしまっていることが多いと思います。本来はわかりやすく説明するためだったはずの「コンセプト」が、もっともらしく見せるためのこけおどしにされてしまい、なおいっそうわけがわからなくなっていることもしばしばです。

これはほんともっともですね。コンセプトではなく、こめた情念を綴るみたいになってしまってますね。でもこうした情念を共感しあうことが写真村では重要なことになってますね。昔からこんなだったわけでもない気がするんですが。

確かに、以前は写真展口上の内容が今ほど情緒に傾いていなかったと思う。これについては後述する。ただ、それよりも、かつてはそういう口上自体があまり掲げられていなかったのではないか。

美術と説明

鑑賞対象としての写真と、それ以外の美術というジャンルとにさしあたり二分して話を進める。まず美術について。
展示会場に入ると順路の最初に口上を打ちだした紙切れが貼ってあるのが今ではお約束になっているが、かつてはことばでいちいち説明しないほうがいい時代が間違いなくあった。日本ばかりでなく、今では明瞭な説明を求める米国でさえ。
端的な例がある。河原温だ。
説明を拒み神秘化することで、日本出身でありながらメトロポリタン美術館の常連の座を占めるまでに、美術史のスターダムをのし上がった。40年も前にだ。かつては「沈黙は金」だったのである。
寡黙で人間嫌いという芸術家像の通り相場が確立される経緯も興味深いが、ここでそれを調べる余力はない。
25年くらい前までは、アーティストたるもの制作物でものをいうべきで、あれこれゴタクを並べて説明するのは慎まなければならない、アーティストがことばを使って語るのは恥ずべきことだ、という風潮の残滓があったのを覚えている。
そればかりではなく、nanjotoshiyukiさんの指摘にある、「コンセプトが提示されてると自由に見られない」というのと同種の態度がかつては蔓延していた。制作物は鑑賞者の解釈に委ねられるべきで、制作者自身の解釈の押しつけは多様な解釈を阻害するともされていた。
当時はポストモダン思想が国内で最盛期で、「作者の死」が謳われていたこともあり、制作物の最終的な責任主体やら権威に制作者を祭り上げる絶対視は終焉したことになっていた。制作者本人が自作について何かを語っていても、それはさまざまな解釈の可能性の1つにすぎず、誤りやめくらましや粉飾でさえありうるのだから、顧慮される必要はない、ともされていた。
昨今とは隔世の感がある。
今では現代美術であれ現代写真であれ一般に制作者のステイトメントが必須とされているが、これはここ何10年かの趨勢であり、上記のような変遷をたどってきたことを考えると、現今のルールが一時の流行で終わって数10年後には別の風潮に移行する可能性もおおいにある、という点には留意しておいてもいいだろう。
さらには批評の地位の低下も影響しているのではないか。
批評とは「美術」「音楽」といったジャンルと並ぶ1ジャンルであるが、このジャンルの低落傾向は、他ジャンルと比較してもひときわ著しい。少なくとも、芸術批評の書籍など、職業的批評家の存立を保証してきた社会的基盤は明らかに衰退している。そのため、制作物の見かたについての案内を批評に頼れなくなり、制作者自身が示さなければならなくなった。
さらに文脈依存度の高い内容が多くなり、説明なしでは成立しない制作物が増えたという事情もあって、制作者の声明が米国でお約束となり、この国にも波及したのだろう。

写真展示の説明文

鑑賞対象としての写真のジャンルにおいても、nanjotoshiyukiさんがおっしゃるように「昔からこんなだったわけでもない」のは確かだと思う。一般の現代美術同様、今ほどステイトメントが求められる傾向がなく、黙ってものをつくって謙虚に観客の審判を仰ぐのが美徳、というような合意が、20年くらい前まではまだ残っていたと記憶するが、たとえばカメラ雑誌に写真家が一言述べたり、なんらかの催しで写真家がものを語るような機会はあった。その内容が当時と今とではいくぶん様変わりしているように思う。
かつて演歌的・浪花節的、湿っぽい、情緒過多といった語り口は忌避される傾向が強かった。そのようなトライブもむろんあったが、鑑賞対象としての写真のジャンルの大勢としては、情緒的ないし物語依存型の言辞は一段低く見られ、もっと硬質で冷徹な口調や文体や内容をよしとする層が確実にいたように思う。それは写真自体の傾向についてもあてはまる。
90年代、写真の主流が物語偏重に大きく舵を切ったことで、写真を語る言説にも変質がもたらされたと思われる。その原因として、若い女性への写真撮影習慣の浸透、風俗写真家の大ブレイク、母親の死を嘆くフランス人の言説の流行などが考えられるが、それらを準備したひとつの大きな要因として、当日誌ならではの解釈を述べてみたい。
それは、カメラの自動化である。かつて写真撮影には露出に関する知識や焦点距離と画角の関係の理解などが必須であり、合理的にものを考える能力と最低限の科学的素養が不可欠だった。また金もかかったため、教育程度と所得水準が高い層のたしなみであった。
ところが、ここでも何度も述べているように、カメラの自動化が進んでそのような知識なしでもそこそこに撮影できるようになり、またカメラや関連品の単価や税金が下がって贅沢品ではなくなり、プリントも安く行えるようになった。
参入障壁が年々低くなって誰でも写真が撮れるようになり、鑑賞対象の写真のジャンルにもそういった層が大量に流入した。かくして、かつては多かった、ものを合理的に考え、理詰めでものごとを組み立てるという思考様式のプレイヤーが相対的に減少し、そうではないひとびとの比率が増加した。その結果、写真へのかかわりかたが総じて情緒的となり、物語偏重に傾いたのではないだろうか。
なお、ここでいう物語とは、metanarrativeのようなたいそうなものではなく、個人史とか生活経験といったベタなナラティヴのことである。

語る能力を欠いているのに語りたがる

そうした情緒・物語偏重型の格好の例がある。この撮影日誌のコメント欄に定期的に湧く人士である。上であげた記事のような内容だとよく現れるのだが、彼らによくありがちな思いこみを俎上にあげられ気に障るらしい。異論はいろいろあろうし、文句があるなら根拠をあげて筋道立てて反論してくれればいいだけの話である。
ところが、敵意丸出しコメントの投稿者にはそれができない。
ご覧の通り、理路整然と論旨を組み立てるどころか、読み書き能力がおそろしくお粗末。並の判断能力があるなら、ひとのブログに上がりこむからには、まずは一通りそこを読み通して、基本方針をわきえまるくらいはするものだろう。ところがこうしたかたがたは当該の記事すらろくに読まず、ごく一部に腹を立て、その前後の脈絡さえ理解できないまま、感情的にかみついてくる。
相手の立場を理解した上で、述べられている個別の論点に対して反駁するなら、有意義な議論ともなろう。だが、そんなのはとても覚束ないものだから、一方的な罵倒、通念を振りかざしての説教、立場の根本からの全否定と、きわめて大雑把な攻撃とならざるをえず、気に入らないという不満の表明以外にはほとんど内容のない無益なdisりと化す。
彼らに共通するのは、みずからの価値の尺度が絶対と思いこみ、自分が正しいと信じて疑わず、他の立場を許容しようとしない偏狭な態度といえる。これは自身が属する世界の無反省な肯定、幼児的全能感の裏返しであろう。それは物語の中への埋没へとつながる。つまり、こんにちしばしば見られる、私的な物語を万人共通であるかのように錯覚し、臆面なく垂れ流す、写真についての情緒過多な語り口と同根のものではないだろうか。
そしてまた、彼らは語る能力を持たないのに、語る機会を得たばかりにやたらと語りたがる。それについては当方もおおいに反省すべきだけれど。これは、制作物を発表するだけの能力を有しないままに発表してしまうのと通ずるのではないか。
これらを総合するに、このような種族が情緒的で物語依存的な写真および写真についての語り口の蔓延を招いたのではなかろうか。
むろん、論理的思考に長けていなければ写真ができないなどと主張するものではない。情動的な制作動機も、写真への物語的構造の導入もありだと思うし、さらに写真の説明を物語ベースで行うことも否定するわけではない。ましてや、物語寄りの写真が全部この例と同等だと述べるつもりはまったくない。この例は最近の傾向を考える上で好適ではあるものの極端なケースであって、いうまでもなく、物語の語り手が論理的思考力にも恵まれることはいくらでもある。知的程度とは別の問題である。物語に立脚した写真でも、充分にオリジナルで説得的であれば見るに値すると思う。滅多にお目通りかなわないが。
反論は結構だが、せめて右のカテゴリ一覧から読める[この撮影日誌について]カテゴリの一連の記事とその関連リンクを通読してからにしていただきたいものである。