「誰にでも」と「わかるやつにだけ」

初個展から見ていただいている、制作と評論の両方をなさっているかたから、君のは昔からやりすぎる、わかりやすくしすぎなんだ、と言われる。むろん否定的な意味で。
そういうことか。他からも、もっと難解でいいんじゃないか、などと言われていて、はあ? おつむの足りない連中が綺羅星のような思想家の名前と引用を並べたりもったいつけてさも深遠な意味ありげに粉飾してるのと同じことをしろっての?と思っていたが、やっとわかった。
ほどほどにしておくのがよろし、てことだ。徹底すること、とことんまでやることをこっちは常にこころがけているわけだが、世の中にはそれをよしとしないひとびとが一定割合でいるのだろう。一定ではなく、かなりの割合なのかもしれない。
いわゆる「ほどよく」「バランスのとれた」ものを好み、こんな代物には拒絶反応を示す、そういうひともいるだろう。なるほど、この5年間喰らってきたあの反応はそういうことだったのか。芸術に対する価値判断は最終的には好みの問題でしかないと思う。嫌いならいかんともしようがない。
一方、こっちはといえば洗練とかバランスなど大嫌いである。そんなのは中途半端ってことじゃないか。これも好みなんだからどうしようもない。徹底させなきゃ気がすまない。極端でエキセントリックなのが昔からの身の上。今さらやりすぎだと言われて唯々諾々と従うわけがない。
それだけではない。現代美術やら写真でしばしば用いられて定番化しているような、よく整えられて居ずまいのいい品位ある形式に落としこむことが求められているのではないか。自分では納得しておらず展示もせずじまいだったが、いかにもそれっぽい現代写真風の体裁は満たしている過去の制作物を他より評価され、こんなもんか、と思ったことが何度かある。
閉じた集団の価値の尺度におもねっていてはどうしようもないだろう。内輪受けでおしまいだ。価値を保証してくれる集団の外にこそ向かわなければならない。その一念で、誰にとっても明確であることを第一義においてきた。明確であろうとするのは意識的に行なっていて、極端狙いはその帰結である。
ところがそれを受けつけない種族がいるということなのだ。気がつかなかった。そういったひとびとは内輪受け的受容体制を好む性向なのかもしれないし、それとは別の問題なのかもしれない。ただいずれにしろ、現今のこの国の諸ジャンルが蛸壺的内輪受けに占有されているのは確かなので、そこから逸脱しようとするものが極端に走り、結果として彼らの価値の尺度と相容れない方向をめざしてしまうという事態は充分にありうるだろう。
つまり、こういうことだ。こちらは「誰にでも通じる」ものであろうとする。ところが、「わかるやつにだけわかればいい」というひとが存在する。昔からいた。インテリ層に多かった。あの見慣れた二項対立だ。
こちらは彼らを蛸壺的だと非難するが、彼らにしてみればこちらは大衆迎合的であり卑俗であり低級なのだろう。「わかるやつにだけ」派はあらゆるジャンルに昔からいて、特にこの国では見巧者や通人などといってそういうトライブを優遇する風潮があったが、ジャンルが高度化し細分化するにつれ専門家筋と一般との乖離が拡大し、トライブ間の交渉も途絶えて、もはや完全にすみわけている。
どうだろう。こんなふうに単純化すればわかりやすい。わかりやすいのはいいことじゃないか。しかし、そんなものではない、すぐにわかるものは高尚ではない、というひともいる。どちらが正しいというものではない。現代詩や茶道や将棋や歌舞伎はまったく理解できないが、その受容集団の構成者は高度な文脈と価値の尺度を共有しており、おそらくは豊かな文化を築いている。わけがわからないからといって、彼らを否定することはできない。でも、自分は、閉じた共同体の中で馴れ合って褒めあうのは御免だ。
だが、それら2者はそれほど違うのだろうか。かつては大向うに背を向け我が道をゆく的姿勢に共感を持っていた。今でも基本的にはそっち側だ。何せ「自称孤高のひと」だから。だいたい万人にわかってもらおうとは思ってない。Jポップとは違う。人口への膾炙が目的ではない。理解者は少数でいいと思っている。そうすると「わかるやつにだけわかればいい」という態度と差はなくなる。
ならばどこが違うのか。
閉じていることそのものを是とするか否とするか、そこに尽きるだろう。
特定共同体の定めた価値体系を共有していなければ理解できない、ということに対する疑問が最大の動因なのである。仲間内だけでわかりあっててもしょうがないじゃないか、それとは別の価値体系に属する相手にもおもしろがってもらえなければつまらない、ということだ。だから、共有者の数が問題なのではない。
ことばも通じず価値体系の共有など望むべくもないどこかのバルバロイに、それでもおもしろがってもらえるものでありたい、だからこそ、徹底した奇妙さ、明確さを心がけている。
ところが、誰にも誤解の余地のない明瞭なものをめざしながらも、ハイアートの価値の尺度からも逃れられておらず、そちらも満たそうとしてしまうので、商業的にもなれず、帰属すべき文脈がまるでなくなってしまう。それでも、われわれ一般大衆にもおもしろく、しかも玄人筋をもうなさせる、そんなものがやりたい。
そして、きっとまったくのひとりよがりじゃない。破壊者だ、ポップだ、と捉えてくれる理解者もいる。無駄ではなかった。やっぱり展示はやってみるものだ。
 
プリントは、外注先が見たらテストとあまりに違いすぎるというのが一目瞭然だったらしく、再出力してもらえる模様。まあ、よかった、としよう。
明日6日の閉廊後に差替の予定なので、明日いらっしゃる予定のかたは、土曜以降のほうが本来の色をご覧いただけていいと思います。あるいは、明日の19時前にお越しいただければ、失敗プリントと出し直しの両方を比較できて、しかも展示替え作業にも参加できるという特典つきなのでおすすめですよ。