規範について。
そもそもピアノというものが好きではない。もともと音が嫌い。しかしグレン・グールドはとりわけ苦手。グールドの音楽そのものよりも、グールドを聞いてれば頭よさそうに見える的な風潮に昔から反感があった。しかるにずっと前からブランドであり、知的スノッブのための定番アイテムである。異を唱えることが許されないような祭り上げられかたという点ではゴダールに通じるものがあるような気がする。20数年前から唱えてきたことだが、レオンハルトやヴァルヒャのバッハをあらかじめ充分に聴いてこそグールドのバッハが意味をなすのであって、グールドばかり聴いていて、それがスタンダードになってしまうのではまったく本末転倒なのである。
それはともかくとして、いかにヘンテコなことをやるか、どれだけ人と違ったことをやるか、ということだけを考えて暮らしていたに違いないあの奇矯な人物は実はわれわれからけして遠くはない。なぜピアノだったのか、なぜ作曲をしなかったのか、一見すると謎ではある。もっと自由にやればよいではないか。しかしそうではない。ピアノという完成されてはいるが非常に様式化された楽器でなければならず、すでにある楽曲に対する新奇な演奏解釈という形式でなければならなかったのだ。別にピアノでなくてもよかったのだろうが、特定の音色や音響特性をもつ楽器を使う必要があった。何でもできる電子楽器では駄目だったのだ。そして、他人のつくった曲、それも元来解釈の寛容度が広いロマン派の曲目ではなく、形式的完成度と規範性の高い古典期の楽曲でなければならなかった。ピアノの音や古典音楽というかたちで与えられてくる制約の中でしか、おそらく彼の独創性は発揮されなかったからだ。そうした条件もない、ただただ広大な曠野に放り出されたら、自由すぎてなんら手がかりも得られずにただ天を仰ぐほかなかったのではないか。重力はわれわれを縛る最大の制約であるが、無重力下では骨も筋肉も衰えてしまうという。制約は必要なのである。
写真において、われわれはさまざまな制約が課されることによって逆に何かをなしえている。まず対象という制約がある。ないものは写せないし、何かを撮影すれば像はその再現に制約される。それは制約ではあるのだが、写真を成立させる規範ともなっている。露出も規範である。現状のこのピンホールカメラは固定焦点である。これをそのうちズームレンズのように可変焦点にしようと考えていると話したところ、S氏から、焦点距離という規範が失われ、宙づりになって手がつけられなくなるのではないか、というような指摘を受けた。フィルムの傾斜角度も現状では固定だが、これをかつて考えていたように回転できるような機構を設けたら、何を基準にすればいいかわからなくなり途方に暮れてしまわないか。そもそも、ピントという写真における親分格の制約あるいは規範が、ピンホールカメラにあっては成立しない。そこで箱が不定形でブラブラしていたらカメラの根拠が失われる。無制限、食い放題、ダダ漏れだ。
矩形に限られた平面の区画の上でものごとを完結させようという写真のありかた自体が大いなる制約であり、現代美術で大方の写真が見放されるに至った元凶でもある。そうしたさまざまな制約について考え抜くことがわれわれの課題であるが、そうした営為が文献学的な、あるいはアカデミックな西洋再現音楽のような解釈ゲームという隘路への途であり、訴求できる層までも制約されていく。
あとはそのうち。