昨日の続き。
制約や規範を必要とするのは眼高手低の人が陥りがちな傾向ではないだろうか。批評眼の人、なんらかの先行するテキストや文脈があってはじめて何ごとかがなせる人。既存の文脈などお構いなしに、勢いと旺盛な生命力で走り続けられる猪突猛進型の人間には制約などわずらわしいだけだが、現代一般のつくり手には文脈がなければいかんともしがたい。ロマン派や現代曲など因習的桎梏がゆるい分野に放り出されてしまったグールドのように、何も手がつけられなくなるだろう。写真全体とは言わないが、鑑賞対象となる写真に限ってみれば、概して批評的意識の強い人が多い。比較的高学歴で、ある程度の年齢になってから写真をはじめるという人が多く、基礎学力が総じて高いため、みな能書きが多い。しかも鑑賞対象となるべき写真は、たくさん撮影した中から事後的に選んで提示されるという場合が多いので、そこですでに批評的判断が下されている。そうなると必然的ななりゆきとして、今どき写真なんて誰にでも撮れるのであるから、とにかくばしばしと撮りまくったうえでその結果に対して目利きになればよく、つまるところ批評家がもっともすぐれた写真家であるという事態に立ち至る。実際教育機関で批評家なり上からものをいう写真家の指導のもとに行なわれる講評とはそんなたぐいのものではないか。写真を選んで説明づけるという能力を養うための訓練。知らないけど。
以前も書いたが、かたちを一から構成できないから、すでにある対象に頼れる写真を選ぶ。自分で語り出すことができないから他人の創作物を通じて評論を書くというふうなことはさまざまな評論家が語っている。鑑賞対象としての写真には批評的要素が強いと言っていいだろう。
しかし、自分が批評型、眼高手低の人間かというと、大いに疑問を抱かざるを得ない。
まず、他人の制作物など最終的にはまったくどうでもよい。このことからして批評的であると世間で見なされるような態度からは程遠い。
文章も書くには書くけどこんなのは手すさびにすぎない。あくまで写真のサブテキスト。写真より文章のほうがおもしろい、ということはこれまで何回か言われてきて、このところ聞かなくなったと思っていたら今日ひさびさに言われた。そういうことを平然とうそぶく人たちは、この日誌をおもしろいと思うのなら、これほど興味深いことを考えている人物がこんなにも本気でやっている写真があって、それをおもしろいと思えない自分はどこかが間違っているのではないか、というふうには考えないのだろうか。俺だったらそう考えるがね。
今回の展示について、マンガっぽいとみなが語るのが何をさしているのかようやくわかった。ギャグマンガでときどき登場する、「ドーン」という効果音とともに登場するような、上が広がっていて、立てた豆腐のように曲がりくねる、擬人化された建物、あるいはアメリカンコミックに出てくる極端に変形された建築物、あれだ。もってまわった言い回しなのではなく、直截にコミカルな絵柄を髣髴させるという意味合いだったわけだ。まったく思いもよらなかった。最近マンガをあまり読まないということもあるが、とにかく撮影中からそのへんの視覚的記憶がごっそりと抜け落ちていた。観る側がそういった既存の語法を思い浮かべるのはまったくかまわないのだが、こちらとしてはそのような文脈とは縁もゆかりもない場所、広角結像系周辺部での遠近法の破綻というような、社会的にはなんの関心も払われていない問題の圏内で構想し展開していたということだ。3年ほど前は広告写真で広角レンズの使用がわずかに流行していたが、そんなものはしばらくすれば跡形もなく消え去る。自分の関心でしかやっていない。きわめて視野が狭い。目配りは利かない。文脈依存度はきわめて低い。批評的意識とはあるものをとりまく文脈に照らしてそれを評定するということであるなら批評的とは言いがたい。
規範に戻ると、長時間露光を要するピンホール写真に必須の規範がある。三脚だ。S氏はピンホールをライズさせたカメラを使用して、地面に直接置くことで三脚の携行を回避したという。ただ、三脚のもたらすその先の規範というものがある。三脚上できっちり絵づくりをして、とくにビューカメラの場合は水平出しをしたうえでアオリをかけたりする。手持ちカメラ撮影のように、水平などおかまいなしにいかようにでも傾けて対象に迫ったり斜に構えたりとはなりにくい。そうして典雅で居ずまいの正しいビューカメラ的規範に則った写真となる。S氏は三脚を使わなくても水平はきっちりとっており、そうした規範に従っていたという。今回の写真でも多くの場合左右の水平出しはしており、横の線を傾けたくなかったものは特に気を使っている。そう考えると三脚を使った写真の規範に準じているようにも思えるが、しかしながら前後方向の水平はまったく無視していて、結果折り目正しいとはおよそ呼べない写真となる。そもそも水平出しは平行線が収束せず上すぼまりにならないための方策であって、今回そこに楯突いているのであるから、三脚の規範からは完全に逸脱しているというほかない。ほとんどの来客にその点をおもしろがってもらえているので、この意図は誰にでも単純に通じていると見なすことができ、ひとまずは成功と考えてよさそうだ。そして、すでにある規範に頼らなくても自由にやっていけるのではないかという気がしている。依拠するための制約も社会的文脈も必要ない。文脈に依存する度合いが低いので世間的注目も低いが、その分古びない。そういえばかつて唱えていた行動規範は合理性と貪欲さと自由だった。規範は合理性だけで、あとはもはや規範というものではない。規範から自由でありつづけられるか。