「器用さ」の諸相

Sのネガ15枚を一気にプリント。眠い。いや自分がではなくネガが。自分もか。
大全紙から六切を大量に切り出し。慣れれば全暗でも難なくできる。これは誰にでもできる作業なのだろうか。でも美大での写真の実習で、カットフィルムホルダにシートフィルムを装填するという作業がどうしてもできず、暗室作業の最初でつまづいてしまったという話を聞いたりもするので、目視確認できない環境下での作業を不得手とするひともいるようだ。全暗下でのカッターや印画紙の扱いなどを数回の訓練で習得できるというのは多少とも器用だからと考えていいのだろう。
やはり暗室作業にはある程度の器用さが必要だし、不器用なひとはなじめずに離れていくだろう。指先の触覚でさまざまな要素を「触り分け」られなければならない。つまり、器用さというものに一般的に求められる手先の動きの能力に加えて、その動きを監視して制御する目の機能をも、暗室では手が兼務しなければならず、それがために手が器用か否かがよりはっきりと露見するのかもしれない。
以前も書いたけれど、大坂寛のような写真家は楕円のマットカッティングを自分で行ったりとたいへん器用らしいし、カメラの修理を行う専門職は、時計ほどではないにせよ超絶技巧を有しているのだろうが、そこまでの突出した器用さは自分にはない。でも大坂寛同様カメラを自作できる程度には指先が動く。そしてその指先を制御する目も有していると思う。器用さとは、この、手と目の両方があってこそのものであろう。この意味での身体能力には、自分は比較的長けていると考えてよさそうだ。
ところが、球技が昔からまったくできない。ゲーム関係もだめ。協調性とか体力が劣っているとかいう話とは違う。投球と捕球という基本の能力が決定的に乏しい。とろいからだろうか。でもそれでは、ボウリングもビリヤードもダーツも全部だめだということを説明できない。みな動かないのだから。
ビリヤードもダーツも、道具を使って対象を意のままに動かすことを競うゲームである。道具を使うという点では、カッターで木を切ったりドリルで穴をあけたりするのと同じだろう。顕微鏡下の微細加工も多少はできて包丁もそこそこ扱えるにもかかわらず、ビリヤードのキューの制御ができないのはなぜだろう。
この疑問を整理するとこういうことになる。手先の確実な動きと、それを制御する目の働きをそなえていると思われる者が、手の動きとその制御能力で巧拙が決すると思われるスポーツやゲームを苦手とするのはなぜなのか。それぞれに要求される身体能力の差は一体どこにあるのか。
動きが鈍いかというとそうでもない。昔知り合いの結婚式の写真撮影をよくやったが、自分でいうのもなんだがなかなかうまかったし、かなり喜ばれた。対談やインタヴューの撮影もそれなりにこなせた。つまり、いいシーンに的確に反応できたということである。状況判断もでき、反応速度も悪くなかった。
スポーツでいわれるような反射神経の能力ではないようだ。
ボウリングやビリヤードで必要とされる能力を考えると、対象の運動経路を前もって予測し、その予測を実現させるべく適切な運動量を対象に与える、ということだろうか。動きを読むことと、筋力を適切に働かす能力。
でもそれは、カッターを動かす指先にどの程度の力を加えれば所期の位置に切っ先を運ぶことができ、その後の移動をいかに制御できるか、をこなせる能力とどこが違うのだろうか。これが得意なのにボウリングやビリヤードが苦手なのはどこに原因があるのだろう。
しかも、見たところ、工作好きの器用なひとは、だいたいビリヤードとかかっこよさげなものは苦手そうである。id:itozakiさんとか。間違ってたらまことに失礼。
器用さってなんだろう。これは音感なんかと一緒でかなりの部分天賦の素質だろうという気がする。音痴の人が、努力によっては多少改善するかもしれないにせよ、絶対音感を得るところまでいくのは無理な相談だろう。われわれがどんなにがんばったところで松坂大輔の制球力は得られない。同様に精密加工ができる器用さもかなりの部分「向き不向き」で決まっている気がする。
でも、写真に求められる器用さと、ボウリングとか射撃とか、スポーツなのかどうかよくわからないものも含めてスポーツとされる分野で期待される器用さは別のものであるらしい。そして、写真で有効な機敏さは、スポーツではあまり役に立たなかったりする。
たいていのカメラは使いこなせるし、写真に関連する技術は一通りなんでもうまくこなせる。しかしスポーツやゲームは概して下手である。そういうひとは少なくない。
写真という分野で求められる能力を、写真に向く人間はひとかたまりで有しているらしいのだ。これも前に書いた気がするが、そのような開発者たちの適性がまずあって、それに合わせて写真のメディウムが発達してきたから、結果として写真をやる人間にも開発者たちと同様の能力が要求されるようになり、スポーツとは別種の器用さが必要となった、ということなのだろうか。単純に興味の問題で、好きだから訓練してうまくなる、というだけの話だろうか。だいたいこんな特殊な一例だけで考えることに意味があるのだろうか。うーんわからない。