つづめていうなら、「それがかつてあった」のかどうかが問題になるのは一部の当事者にとってだけだということだ。家族写真ならば当事者はきわめて限られるものの、歴史的事件にまつわる写真や社会問題に関わる写真ならば当事者数はふくれあがる。しかしいずれにせよ、直接間接の影響ないし利害関係と無縁の人間にとってはとるに足らない話である、その写真が実際の出来事の証拠であったとしても、あるいは、やらせなり合成なりハイパーリアルのペインティングなり、とにかく実在の対象との対応を欠いていたとしても。そうした者にとっては、写真に写っている「それ」が「あった」のであれ「なかった」のであれ、まったくどうでもよい。そのどうでもよさ加減は、他人の家族写真を想起すれば即座に了解されるだろう。そこらにある知りもしない一家が写っているような写真にふんふんと一瞥を与えるだけの者にとって、その一家が実在していようが捏造だろうがおよそ関心の埒外である。そしてわれわれをとりまく大多数の写真はそのようにやりすごされる。いちいちかかずりあっていたら身がもたない。それは写真の流通量の多寡とは別の問題である。写真が貴重であった時代であっても、おのおのの人にとってどうにも関心を持ちようのない写真というのはあったにちがいないからだ。また、写真合成技術の一般化にともなって写真が事実の動かぬ証拠であるという信憑が崩れたと考えるのはあまりにも浅はかすぎる。写真を見てそこに写っている内容の真偽を疑うようになったのは昨日今日の話ではない。フォトレタッチ環境が普及するはるか以前から、それこそイポリット・バイヤールの昔から、やらせや演出は写真につきものだったのであって、写真が事実の反映であるという合意は当初から留保つきだったと考えたほうがいい。現実的対象との臍帯が写真の本質であるなどという主張はセンチメンタルな思い込みでしかない。物として無造作に投げ出される写真にそんなものはない。誰かにとってのそうしたかけがえのなさを、特定の写真が担うことはあるだろうが、きわめて限定された条件のもとでの個人的事情にすぎず、あくまで写真の付帯的機能にとどまる。では写真の中心的機能とは何かといえば「本物っぽさ」「実物そっくりに見えること」であるが、それは実際の対象を離れても成立可能なのである。
「それはかつてあった」なる標語はさっさと捨て去ったほうがよい。新築マンションの完成予想CGはいまだないがいずれある対象を再現している。それが充分に高精細であり、建築後のマンションを忠実に先取りして反映していたなら、その画像だけを見る限りでは、もはや「かつてあった」写真との区別はつけられない。それもまた写真であると認めざるをえないのである。繰り返すが、これは今にしてはじまった事態ではない。現在ではとうに廃れてしまった技術ではあるが、かつて肖像写真には肉筆での修正が不可欠であった。写真館の腕とは修正技術の腕だったのである。写真の歴史の当初より、写真は改竄され手を加えられてきた。つい20年ほど前まで、証明写真やら見合い写真などはほとんど詐欺ともいうべき美化された顔になったり別人と化していることもしばしばだったらしい。修正部分は筆でスポッティングされたり減力剤を塗布されたのであるから写真の情報ではない、との反論があるかもしれないが、ネガにほどこされた修正が印画紙へと写真的に焼き付けられたのであるから、まぎれもなく写真的操作によって形成された画像であると考えられる。そしてまた、熟達の腕前で行われた修正であれば、現実的対象と比較したり事実関係によって考証するというように、写真外の根拠に頼らない限り、肉眼での修正箇所の判別はほぼ不可能である。したがって、この議論の出発点で示した立場にもとづき、われわれが写真を見るという事態から付帯要素を取り払って、ただ写真のみを見る限り、そうした修正も含めて1枚の写真として見られるほかない。湿板写真の時代から、肖像写真に写されていたのは「あらまほしき」その人だったのであって、「かつてあった」その人でなどなく、それどころか将来にわたっても決して実在するはずのない人だったのである。「かつて」とか「いま」とかいう時制が問題なのではない。写真は、当の対象につなぎとめてはおけず、対象から遊離してしまうものである。そこに写っているものが現実の裏づけを持っていることも時としてはあるが、あくまで偶有的な結びつきでしかなく、それをすべての写真に敷衍することはできない。現に、大多数の写真は対象への関心など微塵もないままやりすごされている。写真とは元来そのような再現なのである。