再現とは様式である。「様式である」ということがすでにそれ以外の様式を暗示しており、これが「他と置き換え可能な」様式であること、つまり他にも同様の様式があって、いかようにでも選択できるうちのひとつでしかないということを意味している。写実的絵画という再現の様式が絵画のあまたある様式のなかの国際競争力が比較的強い一種であるのとまったく同様に、写真における再現も単なる一様式であるというのはすでに述べた
様式である以上、さらに細分化された亜種が発生するのが自然のなりゆきである。モノクロやカラーといった種別も様式のひとつである。カラー写真にも彩度が極端に高い様式と低い様式とがある。モノクロ写真はそのなかの彩度がきわめて低い部類と考えることもでき、そうした意味ではカラーとモノクロは連続している。様式という観点から考えるなら、モノクロ写真は特殊なカラー写真というだけのことであって、カラーとモノクロの弁別にさしたる意味はない。もっとも、技術として考えるならばモノクロ写真が基本であって特殊なのは多チャンネルのカラー写真のほうなのだが。
そしてまた、ハイキーなりローキー、軟調硬調、色シフトといったさまざまなトーン、キリキリとシャープだったり甘い絵画調だったりという描写の傾向、高速度撮影から長時間露光、レンズの画角と撮影距離をパラメータとするさまざまな遠近感の演出、それに付随するピントの薄さ深さ、そうした細分化された様式が派生する。動画であるか静止画であるかというのも再現という様式上の一亜種にすぎない。モノクロとカラーの関係同様、決定的な差異はなく連続している。あるいは反射光観察方式と透過光観察方式という差も様式上の差に帰着するだろう。
それらはレンズによる再現という様式上のローカルな分化である。では現実の再現には写真以外にどのような様式があるのか。その問いに対しては、ホログラム、カメラ・オブスキュラ、顕微鏡、望遠鏡といったものがあげられよう。ステレオ写真もその中に加えてもいいかもしれない。それらはみな現実を再現していながら、当の現実とは異なる見えを体験させる。誰しもその見えに没頭する。ピンホールによるカメラ・オブスキュラで、外のどうということもない現実が天地左右逆像でぼーっと映し出されているだけなのに、独特の再現の様式につい見入ってしまう。ステレオ写真でもホログラムでも、再現されている内容はまったくありふれたつまらない対象であっても、見えの様式が新鮮であることによって瞠目させるのである。
しかしながら、様式である限りにおいて、いずれ定型化し、陳腐化する。写真やいわゆる映像の技法が出つくし、みな既視感をまとっているのと同じことだ。カメラ・オブスキュラの映し出す光景は当初目新しく見えるのだが、結局のところそれは仕掛の目新しさがもたらす見えの新奇さにすぎず、内容の変化に乏しければいずれ飽きが来る。ステレオ写真、顕微鏡、みな同じ。おもしろがるのははじめだけ。たちまち見えは様式化され、仕掛の新味だけでは立ちゆかなくなる。あとはTVのように、フレームワークはすっかり厭きられきっているのを、登場するタマを次々入れかえて刺戟を持続させるしか延命の手段はない。商業写真がやっているのはそのおこぼれにあずかることである。そこで要求されるのは、ころころと移り変わっていくタマに対して、すでに用意された数多くの意匠のなかからその局面に応じて適当なスタイルを引っぱってきて適用する能力である。
再現はがんじがらめである。では、なんとするか。