見なければ語れない、とは限らないが

かつて某文芸誌に「読まずに語る文芸時評」なるものが、その後政治家に転身した小説家によって連載されていた。およそ読む気がしなかった。
ある「キュレーター」は、いちいち見ているようなのは素人だ、われわれプロは見ないでコンセプトだけで判断する、などとのたまった。このような御高説を垂れる大先生のお仕事に対しては、見るなど礼を失した対応である。展示なんて見ずに、「コンセプト」なり企画書なりチラシの文言だけで判断するのが礼儀というものだ。実際のところ、多くの特集展示は制作者と設営業者の仕事である。どんな空疎な「コンセプト」の元に編まれた寄せ集めの集合展であっても、制作者によっては何とか見るに堪えるようにしてしまう。そうした個々の出展内容に幻惑されて、展示企画そのものへの評価がおろそかになりかねない。だから、かえって見ないほうが適切に評価できたりする。
見ないで語る、とは、こういう事態を招来する。見ないで処理するひとは、同様に見ないで片づけられる。
また、見なければ語れないとは限らない、現地に行くなり実際に体験しなければあれこれ言う資格がないというのは、悪しき現場至上主義がもたらす素朴な実感重視の態度であり、抑圧的な特権意識につながる、そのような見解もありえよう。しかしそれとても、世間の合意で評判になったものに後追いで御墨付きを与えるだけでお茶を濁すような、アカデミズム型の批評にしばしば見られるアームチェアディテクティヴスタイルに陥りかねない。
さらには、見ないには相応の理由があるわけで、見なかった理由を述べることが、その対象に対する表明として当を得たものとなることもないとはいえない。しかしながら、それは当の対象にまつわる文脈に関する論評としかなりえない。鑑賞対象としての写真に関していえば、展示であれ写真集であれ、評価の対象として提示されたものを見ることもなくその写真について何かしらを語るのは、写真を文脈でしかとらえていないということの表明に他ならず、ひいては語る人物の見識の限界を示すこととなろう。読まずに語っていればやがて馬脚を現すように。というのはここのことだが。
われわれフィールドの人間は、やはり見てなんぼが基本である。そうはいうものの、見ていないものについてつい語ってしまいがちなのであるが、それはねたみそねみの裏返しでしかないことがほとんどだ。これらをみずからの問題として、見ないものについてはないと見なし、黙して語らぬよう自戒しなければならない。そしてそれはまた、同様の無視として返ってくることだろう。そうしたものを平然とやりすごす境地にはまだまだ程遠い。