1年半ほったらかしだった次世代器を昨日引っぱりだして再開する。仮組とテストまで行ったところで、賃労働で時間がとれず中断し、以降ずっと現行器に時間を投入していたのだった。それに、ひとに言われたことを気に病んだせいもあろう。この写真を見せたわけでもないし核心を突いているとは思えないのだが、ついしょげてしまった。しかし、これはやっておくべきだ。このまま放擲したら必ず後悔する。
板ものはやめた。似ていると指摘されてしまったら続けるわけにはいかない。10年以上前に見たきりなので忘れていたが、似ているといわれれば確かにその通り。プリントしながら、近いかもしれないとうっすら思っていたのだった。やる余地がまったく残されていないことはないと思うが、この領野があらかた踏査されているのは認めざるをえない。方式はまったく同じではないにせよ、結果が近いならやる意味は乏しい。すでに先人によってなされていることをわざわざ繰り返すのは徒労でしかない。未踏の地が多少は残っているだろうし、いずれしかと見極めたのち再開するだろう。とはいえアレンジの域を大きく超え出るものではなかろうし、所詮は落ち穂拾いどまりではないか。技法のもたらす視覚的効果がほぼすべてであるような写真であり、しかもつぶしがきかず、効果を上げようとすれば誰がやっても同様の条件を狙わざるをえなくなる性格のものだからだ。オリジナリティがあるかどうかでかたがついてしまう種類の写真で、継承発展が可能であるようなものではない。
でも考えてみれば、鑑賞対象としての写真で、いや商業写真を含めてもいいが、モダニズム絵画までの絵画史の展開のように先人の業績の上に積みあげるといった発展が、果たしてこれまでありえたのだろうか。商業写真や報道写真というジャンルでは、確立された手法や様式は後人が共有資産として使い回す。しかしそれは陳腐な反復やせいぜいが洗練や微細な技術的向上、あとは文脈が違うだけの話であって、新たに何かが加えられた事例というのは思い浮かばない。たいていの様式はオリジナルの人間によって完成されているからである。鑑賞対象としての写真でも事情はさして変わらない。様式の創始者がほぼやりつくしてしまう。それを継ぐのはただのフォロワー。そして先人が確立した様式とはまったく別の様式を編み出せた人間が次代の顔となる。セザンヌを踏まえてキュビスムが、といった発展ではなく、焼き畑農業的食いつぶしゲーム。そのようにして資源が汲み上げられていき、今や写真というジャンルでの新しさの泉はほとんど涸れかかっている。とりわけ、このように様式の新規さを売りにしているような写真はそうした消耗戦から逃れられない。だが、このゲームに乗った以上は汲み上げつくすまでやっていくしかない。汲み上げつくすのがジャンルの可能性であれ、みずからの可能性であれ。
新型器も1年近くほっぽりだしてあるのだが、これは本格的にとりくむと相当な時間がかかるし、だいたいこの時期には難しい。次世代器は雨なら雨でもやりようがある。
ヤスリがけ、塗装、内面反射抑制。しかしスーパーXが出てこなくて肝心の接着ができない。前はあれほどあったのに、どこに行ったのだろう。また買えば出てくるのだろうか。しかし近所のOKストアや西友やディスカウントショップにあるのはスーパーXの透明タイプ。汎用性が高いからだろうがこれとせいぜい白くらいしかない。でも遮光性を考えれば黒が有利に決まっている。しょうがない買い出しに行くか。でも雨。