コレクション/アーカイヴ追記

昨日の記述に関連してあとから思いついたことを例によって蛇足な補足。
コレクションは所有のための収集、アーカイヴは保存のための収集、と言いかえられるかもしれない。コレクターを突き動かすのは何よりもまず所有欲。その場で見るだけではすまない人が収集しようとする。現物の収集がかなわなければ代行として写真で収集する。一方アーカイヴには物欲なんてないから、たとえば新聞などというかさばるものはどんどん捨てて縮刷版やマイクロフィルムやデジタルデータにする。オーストリアのフィルムアーカイヴでもデジタル化が進められているらしい。所有という観点からすればオリジナルの紙媒体やフィルムのほうが価値が上だが、保存を考えるならばオリジナルであることよりもかさばらず褪色がないほうが優先される。デジタルデータの長期保存性についての疑問もあるがそれはまた別の問題。
ただ、そうなるとタイポロジーは保存を目的としていたのかという話になる。アジェはそうした文脈で語られるし、ザンダーも多少はそうかもしれないが、ベルント&ヒラ・ベッヒャーは「保存」ではなさそうだ。標本を同じ条件で並べるといった、まさに分類学的意味合いが強く、保存は主目的ではないような気がする。所有と保存という設定に無理があったか、タイポロジーがアーカイヴだという論旨がいけなかったか、コレクションとアーカイヴの併置が駄目だったか。でも、だんだんどうでもよくなってきた。こういう曖昧な言いまわしもたまにはいいけどすぐ飽きる。
写真がコレクションかアーカイヴのいずれかに二分できるのかというとそんなことはまったくない。
メディウムの相でいえば、インスタント写真や焼き出し印画紙、いわゆる日光写真とか青写真は画像の耐久性が一般に低いので、アーカイヴの収集対象にはなりにくい。ではコレクションの対象になるのかといえば、人が何に執着するかはわからないが、建築図面やら書籍印刷用製版フィルムやらの青焼きをよろこんで収集する人もそんなにいないだろう。Polaroid社が自社の製品による制作物のコレクションをもっていて、ホックニーなんかはポラロイド写真全盛の頃の仕事で残す意義はあると思うが、あの会社がいつまで存続できるかという問題がいちばん大きい。ジャンルの話としては、その場限りで使い捨てられる商業写真はコレクション用途でもアーカイブ用途でもないけどなかなかすがすがしくはある。
その写真がどう扱われるかが以上の話。では、写真の内容の傾向として、コレクション的な写真とアーカイヴ的な写真、愛翫的な写真と採集的な写真とかいった二分法に回収されない例はいくらでもある。それこそいくらでも。
たぶん14、5年前、おもしろい海辺はないかと内房線あたりに乗って窓の外をぼーっと見ていたら、となりに座った老人に声をかけられた。立派な三脚だね、とか、よくあるあいさつ。それはいい。でも、声をかけられた瞬間、その後の面倒なやりとりを予想してげんなりする。案の定その通り「何を撮ってるんですか」と来る。「まあそのへんのものを」と応じれば、たいていはほっといてくれるのだが、しつこく食らいついてくる。やむなく、流木とか岩とか浸食などと答えると、「被写体を愛してるか、愛がないと駄目だ」とか御高説垂れられるわけだ。「花を愛して愛し抜かなければいい写真は撮れない」と。そこで正直にも「愛なんかないです」と返しちゃうと激怒する。「愛がないのに写真やる資格なんかない」とか叱られる。たしかに、「愛」とやらの対象を写真にする人は特殊日本事情と思えるくらい多いし、特に当時はそんなのばっかりだった。またそういうほうが世間に理解されやすいんだろう。外国ではどうなんだろうか。でもねー岩とか氷なんか愛せよっていわれてもねえ、そんなのいちいち愛してたら身が持たないっすよ。どれほど博愛の人なんだって話だ。で、今も塔や現代建築や神社仏閣を淡々と撮影してるわけなんだが、あいかわらず愛着なんてないし、それでも必要以上に執着して何回も撮影しにいったりはできているから充分なりたっているようだ。でも、入江泰吉が寺をライフワークにしたり白籏史郎が山を撮りつづけたりとかいう仕事は、やはりその対象に相応の思い入れがなければできない。せいぜい数年どまりで他に移ってしまう。そのように特定の分野を生涯にわたり追いかけることが美徳であるという了解はたぶんこの国の写真関係には根強く、コレクション写真が人口に膾炙する素地があるのだろう。
対象への愛着に動機づけられたコレクション写真であれそうでないアーカイヴ写真であれ、収集、写真を通じての収集が目的となっているのは間違いない。複数枚を並べる展示とか写真集とか、「シリーズ」というしかたでようやく俎上に載るような現在の鑑賞対象としての写真の評価システムからは、そのような連続性が必然的に要求される。だが、そういった連続性を保ちながらも、収集とは別の運動原理に従ってなされる写真群があってもいいだろう。
連続性のくびきからも脱却できるならすばらしい。鑑賞対象ではない写真、日々の生活の中で、無造作に、何気なく、心のおもむくままになされた写真、捨てられたりぼろぼろになったり、引き出しの奥からひょっこり出てくるような写真。撮影することで対象を収集しようという撮影者の意図もなければ、そうした写真が収集の対象となることもない。それが大多数の写真なのであって、そこにコレクションもアーカイヴもない。ただ、個別の写真があるだけである。だが、それでは鑑賞対象としての写真というジャンルへの参入は許可されない。価値を付与するに足る持続的な制作者の反映が認められてはじめて評価対象とみなされる。無造作な写真を素材として使うような鑑賞対象の制作者は多々あるが、それは展示物の内容ではなくそうした制作方針のほうに制作主体の連続性が鞍替えされただけのことである。美術家にたえず問われるのは、前作や過去の経緯との連続と差異である。そうした一連の流れが制作物の価値を下支えすると合意されている。そして、対外的評価以前にもっと重要なのは、制作者がみずからの同一性を確認するよすがとして、連続性を必要としているということである。「この写真が私である」と思えるためには、そこに至る経緯の連続性を確信できなければならない。このような道筋を経てここに至ったのだ、という物語をたえず編み続けることで、みずからの行いが無駄ではないと言い聞かせているのである。ここでいつもやっている通り。足跡の連続がわれわれをどうにか持ちこたえさせている。だから、連続性からの脱却は容易なことではない。鑑賞対象などという目的を捨てて無造作にことをなすか、健忘症に辿りつきでもしない限りは。
コレクションにせよアーカイヴにせよ、モノを集めることにはかわりない。先人と同時代人がかき集めたモノの集積にわれわれはうんざりしている。連続性を反古にはせずに、しかも、収集ではないような写真、モノにとらわれない写真の可能性があるはずだ。