タイポロジーの日本的変容

コレクション写真とでもいうべきジャンルがある。写真を撮りためていくといつしかコレクションのようになるものだが、それにとどまらず、特定の分野の対象への興味に動機づけられ、その分野を網羅し掌握したということに支えられているような種類の写真群をさしている。特に典型的なのは、数年前には廃墟、このごろでは公営集合住宅とか産業建造物などの物件や場所を、集めてまわるかのように撮りつづけている一連の写真。それははじめは写真におけるタイポロジーから派生したのかもしれないが、極東のこの地で独自の進化を遂げた。もはやタイポロジーとは別物である。それらを特徴づけるのは対象に対する愛着であろう。団地や工場が好きで好きでたまらないというようなところから出発している。それはジョゼフ・コーネルとか澁澤龍彦といった人々の対象への偏愛ぶりになぞらえられるかもしれない。いやもっとふさわしい例がありそうだがその方面にはうといので適当なたとえが出てこない。しかし元来タイポロジーに偏愛とか愛玩といった要素はないはずだ。少なくとも、アウグスト・ザンダーやカール・ブロスフェルトの系列にタイポロジーを位置づける写真史的理解からは、それらは植物学での標本の採集を範とするような営為であって、対象に対しては距離を置いた態度をとると導かれるだろう。ザンダーが、自身の撮影対象であるさまざまな階層や職業の人々に惑溺するなどという事態は想像できない。
10数年前、日本においてタイポロジーの影響下に多くの鑑賞対象としての写真が発表されたが、当時からそれらをコレクション写真と呼んでいた。これはわれながら慧眼だったのではないかと思っている。鑑賞対象としての写真というジャンルではそうした傾向はじきに下火になったが、のちに別の受容者層に向けてより広範な普及を遂げたわけだ。
コレクションとはどういうものか。アーカイヴと比較すると明瞭になる。それらの違いは収集主体の嗜好や価値基準にもとづいているか否かではないか。誰か特定の人物や集団の価値基準がまずあり、それに従って選別されたのがコレクション。一方、そうした取捨選択を行わず、ある方面の対象をかたっぱしから収蔵するのがアーカイヴ。コレクションは趣味のよさなり質を競うが、アーカイヴは量を指向する。なぜか。収蔵庫なのだから、どれだけ多くが貯めこまれているかがアーカイヴ自体の利用価値を決める。そこからどれを選びどう組織し何を読みとるかは利用者の解釈次第である。色がついていたらアーカイヴというよりコレクションである。コレクションにははっきりした性格づけが求められるが、アーカイヴにコレクションのような主張はなく、ニュートラルな存在であり、そのニュートラルさは無選別に寄せ集められた標本の数によって保証される。無作為に量を増やしていけば偏りなく網羅されると期待されるからだ。
ヨーロッパの王侯貴族がつくったヴンダーカマーから現代の個人コレクションまで、コレクションとは個々の対象への愛着が出発点であり、そうしたものがだんだん集まっていった結果として、いつの間にか膨大なコレクションができあがってしまった、というものであろう。だからコレクションは本来保存を目的とはしていない。美術工芸品の個人コレクションはたいてい一代限りで売り払われて散逸するし、全国のみやげもののコレクションとか植草甚一のコレクションなどというのは当人が没したら遺族にとっては邪魔なガラクタでしかなく、あっさり処分される。本人の価値基準によって収集されたということは、本人にしか価値がないということでもある。博物館・美術館などのようにコレクションが巨大化して公共性が高くなれば、建前としては公共的な価値基準によって選ばれるので、コレクションにもアーカイヴ的な保存の役割が求められるようになる。それにしても特定の価値基準によって選別されているのであるから、コレクションの性格が強いと考えられる。ところが、戸籍の記録や不動産の登記書、議会の議事録、裁判の判決文といった文書は、好き嫌いとはまったく関係なく、あとあとのために一定期間保管しておかなければならない。対象の価値などはおかまいなしに、とにかく資料として保存すること、これがアーカイヴの使命であり、公文書館は典型的なアーカイヴである。webアーカイヴは特定の価値基準による取捨選択を行わずにwebデータを機械的に収集保存する。
ザンダーの写真群では類型化が大きな契機を果たしており、収集というより体系化が目的とされているかに見える点で、必ずしもアーカイヴとはいえないのかもしれないが、世界全体を把握し統括しようとするかのような態度はやはりアーカイヴ的だと思える。注目すべきは、ザンダーやベッヒャーの写真において、対象間の序列や価値の高低はないということ。みな同じサイズでプリントされ、均等なものとして並べられている。かたやコレクションでは「核」や「売り」や「目玉」や「お気に入り」が存在する。なんらかの価値軸に拠っている以上、その価値軸に沿う要素と沿わない要素が必ず出てきて、場合によっては点数がつけられ順位が与えられる。ザンダーもベッヒャーもそんなことはやっていない。ザンダーからタイポロジーにいたるドイツ写真の流れは本来アーカイヴァルな収集であった。ところがその写真の傾向が日本に移植されるや、いつのまにか対象をコレクションする態度となり、奇妙な個人的愛玩の表明になってしまった。冷蔵庫やら温室やら動物園やら野宿者の家やらさまざまなものが写真によって収集されたが、彼らの動機についての説明は対象が好きだという一点のみで打ち切られてしまい、それ以上の遡及は拒絶されることが多い。
特定の対象が集中的に撮影された写真群はタイポロジーのはるか以前から存在した。マクシム・デュ・カンの古代遺跡の写真群など写真黎明期の行跡をそのように位置づけることもできるだろう。スティーグリッツの雲やウォーカー・エヴァンスの地下鉄の乗客など、あげていけばきりがない。そしてまた、ヴンダーカマーに限らず写真発明のはるか以前から収集という行為は広く行われていたのであり、収集がタイポロジーに限られるわけではない。だから、廃墟や産業建築などを集中的に撮影する態度がタイポロジーと直接関係あるとはいいきれないかもしれない。また、ここ数年のコレクション写真の流布は、鑑賞対象としての写真という狭いジャンルとは別の文脈上に位置するようにも見える。態度としては、赤瀬川原平らのネタ写真の流れにあると考えたほうが理解しやすい。しかし、廃墟や産業建築などに関していえば、写真の内容を見るとそうでもない。赤瀬川らの活動においては写真は説明するための方便であり、鑑賞対象としての写真のような完成度はむしろ意図的に排除された「シロウトくさい」撮影法がとられることが多かったが、廃墟以降の写真では逆に、ビューカメラを用いて建築写真的な質が追求されたり、撮影方法の統一に留意されていると見てとれることが多い。それはタイポロジーからの直接間接の影響を受けていると考えて間違いはないと思われる。そしてまた、そうした写真での特定の分野に対する耽溺や執着は、赤瀬川以降のアイロニカルな姿勢とは異質なようにも思える。
コレクション写真を貶めているのではない。コレクションとアーカイヴに優劣をつけるつもりもない。ただ、90年以降のコレクション写真は日本特有のタイポロジーの変容形態だという気がする。日本のコレクション写真に特徴的なのは、対象を「愛でる」という姿勢ではないだろうか。だとすれば、それは季節ごとに桜や紅葉で有名な名所を回って、「見どころ」を共有し合うという日本特有の観光の風習に通じるものであろう。