今日は先日ほど空が深い青ではなかった。しかし現代建築の時ほど空の抜けに執着しなくてもいいような気がしている。high-definitionやhigh-resolutionといった方向となじむ対象でもないからだろうか。去年の写真を見せたある人物に、シャープネスがないからこんなのは駄目だ、建築には向かない、もっとこれに合うものでないと駄目だ、などと言いたい放題言われ、なぜ建築だと鮮鋭でなければならないのか、それは建築写真がキリキリとエッジの効いた高コントラストの写真でなければならないという社会的通念にとらわれているというだけではないのか、と内心思ったのだがアホらしくて反論もしなかった。ジャンルとしての建築写真に軟焦点的手法は通常用いられない。まあ建築写真のことなんて、ある建築専門出版社に所属する社員カメラマン2名のあきれるばかりの無能ぶりをよく知っているという以外にはほとんど何も知らないのだが。肖像写真用のソフトフォーカスレンズはもちろん使われないし、基本的には絞って被写界深度を大きくとって撮影される。建築物が写り込んだ写真のなかに、輪郭の甘い写真、もやっていたり煙ったりするような写真ストランドやスティーグリッツのニューヨークとか。一年ほど前に言及した、建造物に向けられて無限遠のさらに遠方に合焦されたPhillipsとかいう8x10カメラによる、8x10判を使う画質上の意味はカケラもない一連の写真は、コンセプチュアルの人の末路を示すという以外のいかほどの価値も認められないのでもとより考慮の対象外はあるとはいえ、直接に建築物を対象としたものという建築写真のジャンルからは外れてしまい、風景写真にシフトするということだろう。田村彰英あたりが古典レンズを使って建築物の撮影をしている可能性はある。しかし、コマーシャルエクターやアポランサーといった、独特の描写傾向をもつとされるラージフォーマット用のレンズは包括角度が狭く、アオリを使っての建築撮影には使えないだろう。スーパーワイドタイプのレンズで「味がある」といわれるようなレンズはあまり聞いたことがない。少なくとも建築写真というジャンルのなかで、内装はともかく外観に関する限り、軟焦点的手法は様式としては確立していない。
それは現代建築の傾向によるところもあるだろう。現代の建築は、細部が鮮明に見えてこないと特徴がわからない。エマージング・グリッドのように曲線で構成された建築物であっても、その撮影に当たってはやはり細部の分解能とエッジシャープネスがないことにはなんだかわけがわからなくなる。
などとながなが述べては来たものの、もともと建築写真というジャンルなんぞどうだっていいし、実のところ建築自体にもさほど興味があるわけではない。写真への技術オリエンティドな関心にもとづき、目下とりくんでいる結像方式を効果的に運用する上で適した対象は何かという思案の結果として選んでいるというだけのことである。対象として採用するかどうかの判断基準は「この箱で撮影しておもしろいかどうか」、この一点につきる。石膏像やら鉄塔やら煙突やらさまざまなハコモノなどはそのような思案の結果選択されてきた。それだけのことだ。その先の深層などない。むろん嫌いな対象をあえて撮影する気は起こらないので、過去の因縁などはありもしようが、事後的に結びつけられる程度のことであって、日頃そんなことはすっかり忘れている。その対象を選ぶにあたって内的動機などほとんど関与していない。もともと宗教に関心などなかったのだし、たまたま巡っているから多少気になる程度のことであり、日々述べている寺院に対する印象は、まったく取るに足らぬたわいない世間話である。気象条件からプリント時の印画紙の選択やフィルター値に至る画質を左右するさまざまな条件も、このヘンテコな写真でいかに見栄えがするか、最終的にはそれだけを念頭に編成されている。東京武道館東京ビッグサイトを撮影したときには、やたらと空の青さに執着した。なぜか。くっきりした青を背景にしたほうが対象との色彩コントラストが際立って、とにかく映えるからだ。絵柄を派手に演出したほうが効果的だ、との判断である。ところが、寺院に関してはとりたててその必要も感じない。東照宮ならともかく、寺院の場合たいてい色はくすんでいるし、モノクロでもよかったかもしれないさえ思う。単純な見た目の大向こう受けよりも、われわれがかねてより見知っているものとの違和感というほうに向かっているのかもしれない。それはそれで、そこでの効果を第一に狙う点で上記の姿勢と変わりないのではあるが。
写真は媒介mediumであるという。しかし、ここに至っては、対象たるギリシア彫刻や仏教建築のほうが、写真に写された対象でありながら、それ以上の何かを示すという意図を効果的に実現するための仲介者と化している。本来は写真に乗っかるものだったはずが、いつのまにか写真についての理念を乗せるための乗り物として機能させられてしまっている。いわば、CDを媒体として音が伝達されるはずが、音がCDの媒介へと下克上されてしまうようなものだ。ここで、媒介するものと媒介されるものとの顛倒が生ずる。メディウムが媒介すべきものを、そのメディウムのための媒介としてしまう。技術オリエンティドな写真とは手段の目的化ともとらえることが可能な方途であり、それにともなって目的となるはずのものが手段に転じてしまう事態も充分ありうる。何しろ、メディウムであったものそれ自体が主題的に扱われて矢面に立つのだから、それが伝播させると考えられていたものは主従関係を逆転されて仕える側に成り下がるのが当然のなりゆきである。このあたりについてはもっと考える必要がありそうだ。