版画の新たな鉱脈

多くの版画家による新作をまとめて、かつ何度も仔細に見られる機会が毎年あり、若手版画家の動きを、部分的にではあれ概観させていただいている。ここ2、3年で目立ってきた傾向として、スクリーンプリント等で厚盛りする版画家が増えてきたように思える。不透明インキのこってりした膜面には、オフセット印刷にもインクジェットプリントにも出せない独特の質感があり、これぞ版画と思わせる。従来型の孔版で、インキのエッジの角が立っていて、インキの厚さが見えるほどに厚盛りした版画も目につくのだが、それだけでなく、何度も刷り重ねて立体のように隆起させたり、塗膜を支持体から独立させてしまう手法もあっておもしろい。版画の物質性の再発見とさえいえるかもしれない。
これは、インクジェット方式を含むデジタル全盛の風潮への反発なのではないか、とふと感じた。多くの版画家が同時多発的にこうした手法を採用しているようなので、あながち的外れでもあるまい。
オフセット印刷にしろインクジェットにしろその他のデジタル出力にしろ、結局のところはデバイスインディペンデントな「画像」に還元されてしまう。面質やら発色なんてものは、所詮、紙への出力には投じた対価に見合う意義があった、と思いこむための材料でしかない。ただのおまけ。支持体は確かに重要な問題なのだが、紙のマチエールやらテクスチュアに拘泥するのは問題の矮小化、単なるすりかえにすぎない。工芸性の偽装というふりかけ。お話にもならない。ならば支持体の問題とは何か。それはおいおい明らかにしていくだろう。
パラメータをいじってあとは機械まかせですむお手軽なドライプロセスが、結局のところ漂着するのはその程度のあてがいぶちの選択肢での浅はかな満足だ。それがいやなら手間暇かけたウェットプロセスの工芸性に訴えるしかない。
版画はそうしたインクジェットの洪水に飲み込まれ、かすみつつある。あるいは置き去りにされ、単なる工芸になり果てようとしている。インクジェットに駆逐された版画技法の典型が「プリントゴッコ」だ。版画の工芸性が工業性へと拡張されたのがオフセット等の印刷業だが、これもインクジェットベースで版を使わないオンデマンド出力に置き換えられつつある。誰にでも使えるインクジェットの流布に、版画という縮みゆく昔ながらの技術であらがうには、と彼らは考えたのではないか。版を使った版画ならではのもの、物質としての版画にしかできないものを、と。
インクジェット等のデジタル出力に安易に頼った自称「版画」はどれもみな陳腐だが、このスクリーンプリントの物質的扱いには途方もない可能性を感じる。
ウェットプロセスによる写真は版画と同様工芸化しつつあるが、当代写真術で再興した古典印画法はとりわけそうなっている。そこでは反デジタルと親デジタルがないまぜなのだが、結果を見る限り、部分はともかく根本的にはほぼ旧態依然と思われる。長谷川潔や浜口陽三によるメゾティント復興のように、旧来の技法を掘り起こし発展させて独自の境地を開く、という「オルタナティヴ・プロセス」写真は寡聞にして知らない。むろん趣味でなされていて鑑賞対象として公開されるのでないかぎりは、独創性が欠落していたり陳腐な模倣であるからといって非難される謂われは微塵もないわけだが。
版画の物質性を問いなおすかのような版画の傾向は、単なる懐古趣味とはまったく違う。デジタル化の趨勢に直面して、メディウムを徹底的に意識させられたことで、先祖帰りではなく、メディウムに潜在していた未踏の鉱脈をとうとう掘り当てたのである。それにはメディウムの進歩、この場合は塗膜が強靱なインキの登場ももちろん寄与しているだろう。それまでなかったものが出現するようになるのには、技術的革新に負うところも大きい。
メディウムは別だが同様の課題にとりくむ者として、たいへん共感させられ、また勇気づけられる。