脱「写真」宣言

誰もが「写真とは」と語る。それは、写真の「本質」を語っているかに装いながら、その実みずからの好みや信条を「写真とは何か」にかこつけて表明し、同時に、気にくわない相手をおとしめているにすぎない。各人各様に「写真とは何か」の答えがありうるのだが、それはその問いへの普遍的な解答などありえず、写真の本質なるものが個別にいかようにでも措定されうることを示している。
これまで8年にわたってここで何度も書いてきたように2004-10-10など、写真をメディウムとして定義することは可能だが、写真の本質を内容によって示すことはできない。つまり、「写真とは何か」に応えて「写真とはかくかくしかじかである」と述べられる際、「写真とは記憶の永遠化」やら「写真とは一瞬の切り取り」やら、数10年来飽きもせず繰り返されてきた主張は、それぞれの「写真とはかくあるべし」という価値判断の典拠の開陳でしかなく、せいぜいのところが、写真というメディウムのさまざまな使われかたのうちでの特定のジャンルの傾向を述べているにすぎない。写真一般をあまねくつらぬく本質などというものはどこにもない。
それはメディウムに立脚した写真の定義であっても同じことなのである。定義が他との境界を画することである以上、そこには必ず、それによって排除されるもの、捨象されるものがつきまとう。それは主観的価値判断から無縁ではありえない。
写真とは」とは、「写真とはこうでなければならない」という謬見への入り口だ。
写真とは」をふりかざすことで、多くの果敢なこころみが「こんなのは写真ではない」呼ばわりのもと弾きだされてきた。
写真とは」は、一見あたかも多様なようでありながら、その実通底している。宗教教団や政治結社と同様に、必然的にセクト化しセグメント化していきつつも根は同じなのである。
もう「写真とは」には心底うんざりだ。
 
なすべきは、「写真とは」ではなく、「写真には」と問うことだ。写真には何ができるのか。写真にはどういった過去の成果があるか。写真にはどんな可能性があるか。
その問いに応えることができるのは、現場での実際の作業によってのみである。ここでのこうした思弁は「写真とは何か」には応答できても、「写真には」に対しては無力である。
 
だが、「写真には」を追求するにつれ、もはや写真であろうとなんであろうとさしたる問題ではなくなってくるだろう。
写真とは」と問うことは、写真というジャンルであれメディウムであれ、写真それ自体の問題化・目的化であるが、それは当のジャンルへの執着と拘泥そのものであり、閉じた芸術至上主義の隘路へ導かれるに違いない。ところが、「写真には」となると、写真でなければならないという理由が希薄化していくだろう。「写真には」は他の「……には」との併置においてこそ意味を持つからだ。
 
だから
 
もう「写真」はやめだ。
だいぶ前から感づいてはいたが、これ以上続けてもどうにもならないと思い知った。
ならどうするのか。
「photography」にいくか、「photographie」か、「Fotografie」、「Fotografía」、はたまた「Фотография」や「照片」に流れるか。それとも別のメディウムへ進むか。
とにかく、この場所で、特異な歴史的経緯と偏向した文脈と奇怪な因襲に隷属させられている「写真」なるジャンルでいくらあがいてもまったく無駄だ。
[写真について]カテゴリもここまで。これ以降更新はしない。
1996年7月末日、7年4カ月勤めた会社を辞めた。それから丸15年。踏ん切りをつけるにはいい頃合だ。