理解か評価か

理解者がほしいなんてのは誰でも言うこと、理解ではない、評価こそが必要だ、とずっと言い張ってきた。今でもそうだ。
理解より評価。
なぜか。
「理解なき評価」と「評価なき理解」を較べてみるといい。
理解をともなっていようとそうでなかろうと、高評価を与えられることで受ける不利益は一般にさほどない。理解を欠いた高評価によって不利益を被るという人がいるとしたら、それは高評価をありあまるほど得ていて、評価に対する評価基準が上昇することで生半可な評価では満足できなくなっているからだろう。そうした人にとってはそれはもはや高評価たり得ていないのである。
あるいは、評価に見えたのが一時的な評判にすぎず、たちまち冷めてしまったか。だが、そこに不利益があったとしたら評判が去ったためであって、評判がよかった間はいい思いをしたんじゃないのか。
理解なき評価を拒む理由はあまり見あたらない。
ところが、評価なき理解はつらい。意図が的確に見抜かれていて、にもかかわらず認めてもらえない、全部お見通しでなおかつダメと見なされているということだからだ。他人から講評された場数に乏しい人にとってはどんな反応もありがたいだろうが、さんざん足蹴にされまくってきた人間にとってそんなものは今さら苦痛でしかない。
「無理解かつ評価」と「理解かつ無評価」であれば、迷わず前者を選ぶ。では「理解かつ無評価」と「無理解かつ無評価」ではどちらがましだろう。完全に理解されて、なおかつ悪く評価されたとしたら、そちらの方がまったくの無視よりはよほどいい。あきらめがつくから。だが、そんなものにお目通りがかなったことは一度たりともない。だからいまだに続けているのだろうが。