盲目者の写真に関して再考

20100725の日誌でおおえさんからいただいたコメントの重要性を看過していた。うかつであった。
あるひとが、自分のための写真と他人に見せていい写真という区分をしていた。
われわれ鑑賞対象としての写真をやっている人間は、自己満足という非難を怖れるあまり、写真の公共性とか、社会的意義なんてものをつい気にしてしまう。
しかし、その当人にとって意義のある写真行為というものを否定する権利は誰にもないはずだ。
視覚障碍者が撮影した写真の結果に視覚障碍者ならではのものがないから独自性に欠けるなどというのは、われわれの勝手な期待が空回りしただけであって、視覚障碍者が「川を撮りたければ、川の音がする方にレンズを向ける。太陽を撮りたければ、体が温かさを感じる方にレンズを向ける。風を撮りたければ、草がサラサラと音を立てるほうにレンズを向ける」という撮影過程に目を向けるなら、それはわれわれにとってもたいへん興味深いもののはずだ。そこには、視覚健常者が容易におしはかることのできない、とてつもなく精妙で奥深い経験があるのではないかと、ごくうっすらとではあるが想像できよう。
その結果がかりに凡庸であっても、それはたいした問題ではない。おそらく、結果としての写真自体が、すでにどうでもいいものなのである、写真をきっかけとして、彼/彼女が音や熱感という身体感覚から視覚的世界を彼/彼女なりに構築しようとするその経験そのものにくらべるならば。他人に内容を説明してもらって確認するのもつけたしでしかないし、それで充分なのだろう。
視覚を持たない人間にとって、視覚的世界はその可能的経験を超えているという意味で超越であるのかもしれない。視覚障碍者が、その持てる感覚器官を極限まで活用して、写真という彼/彼女にとってのブラックボックスにゆだね、みずからの可能的経験の地平を超え出ようとする、そのことが重要なのである。それはそれぞれの個々の経験に過ぎず、「かたちにしろ」といわれる時の、万人に共有されうるかたちとはなりえないかもしれないが、それを否定するなら、ここで書いている写真の過程の記録も意味がないということになる。結果としての写真よりもずっとたいせつであるような、写真にまつわる経験があるということ、これを忘れるべきではない。