やっとわかった。
そういうことだったのか。
ストリート・スナップの写真群。かつてはモノクロが大半だったが、インクジェット出力環境の普及につれてカラーも増えてきた。ぱっと見、おもしろいのかおもしろくないのかがわからない。ということは、つまりおもしろくない。それはまあいいのだが、展示を見ているそのつど、眼前のこの人とその他大勢との違いがよくわからない。みんな一緒に見える。そりゃそうだ。東京の繁華街の路上で人に向けて準広角レンズを装着した35mmカメラなりデジタル一眼レフカメラで撮影すれば、誰がやってもそうそう結果は変わらないだろう。撮影に際しての条件を別に設定してあるならともかくとして。
ところが、人はそうしたスナップシューターの間のあるかなきかのわずかな差異をも的確に見わけ、これはいい、これはよくない、と評価を下している。だいたい「いい写真」「悪い写真」などという尺度が成立すると見なされている時点で理解不能なのだが、それだけならまだしも、スナップシューターが撮影した写真を見ただけで、その人物に帰属する写真であると見定めることができる、らしい。ということはスナップにも多岐にわたる様式の幅があって、それぞれの撮影者が一貫していずれかの様式を堅持しており、その連続性は見れば理解できるはずである、ということになる。しかしそんなものを見抜けたためしがない。だいたい一回の展示の中でもいろんな対象をごたまぜに提示しているというのに、その間にどんな一貫性を見てとれというのだろう。撮影した人物の欲求とか興味とかそういうたぐいのものですか。他人の欲求なんか知ったことではありません。どうしてそんなものをいちいち斟酌して写真をうやうやしく見せていただかなければならないのでしょうか。現に目に見える個別の画像の手前にあるのか奥にあるのかも判然としない、何やらわけのわからぬ代物にかかずらわり、六本足補足用粘着剤にからめとられるような思いをしてまで人の写真を見ているほど暇ではありません。
しかしそんなものはまだいい。理解しがたいのは、個々の撮影者に対するそういった評価というものが、見る人幾人もの間で共有されていると思われることである。スナップ写真の、雑多な見かけに通底する「作家性」とかいう代物と、微細な「作風」の違いを、当然のようにわかりあったうえで会話しあう人びとの会話にはついていきようもない。ストリート・スナップという写真のサブジャンルに共通の話法があって、それは写真を見る人がみなわきまえるべきものであり、それを理解していない者は「写真がわかってない」との烙印を押されるという掟が存在するらしいのである。自分だけがそのコードを会得していないと思わせられることとなる。スナップ写真についての人びとの会話から想像するに、そう結論せざるをえない。
もちろんストリート・スナップというサブジャンルや撮影法を否定するつもりはまったくない。欧米の往年の大作家の写真はさすがだなと思わされることもある。スナップでも造形的な写真はある程度理解できるつもりだし、一方でスナップの名手とされたフランス人ばりの「うまさ」はとっくに「さぶジャンル」と化しているのもわかる。そしてまた、画面構成の巧みさなどとは無縁に、対象の強さや魅力で見入ってしまう写真というのも否定するつもりはない。問題は、そうした明瞭な違いによる判断を幼稚だとしてしりぞけ、特定の集団内でしか通用しないような価値基準を振りかざす態度である。
このごろはあまり写真展もまわらなくなり、新宿で降りたときに数軒の画廊を覗くか、知り合いの個展に行く程度になってしまったが、20代前半から10年程度の期間は、写真展だけで週に10件程度は見ていた。単純計算で年に500回、10年で5000回は見ていたことになる。そのうちの半分はストリートスナップである。これだけ展示を見ていながら、スナップ写真を見るためのルールを一向に習得できないということは、このルールは次のいずれかであると判断せざるをえない。すなわち、努力することによって誰もが習得できるのではなく、素質と能力のある人間だけに理解できる、つまり人を選ぶルールであるか、写真学校などで教育を受けているような一部の人間のみ相伝的に学ぶことができ、一般の者は近づくことのかなわぬ、つまり身分を選ぶルールであるか、その両方であるか、だ。いずれにしてもきわめて閉鎖的で秘教的なお約束ごとである。
そしてまた、目下モードの様式であるらしい、日常の生活を漫然と撮影しているだけにしか見えない、とらえどころなく退屈きわまりない日常のスナップについても同様に皆目わからない。わかる人にはわかる、というたぐいのものであれば、当然ながら、わからない人にはわかるわけがない。文化的バックグラウンドが共通する者だけが確認しあう符牒に過ぎず、それを離れたらなんの意味もない、地球の裏側ではまったく通用しない、文脈依存性が高いものでしかない。たまに外国でもてはやされることがあっても、伝統芸能に対する異国趣味でおもしろがられているに過ぎず、定食屋の食品サンプルを外国人が喜ぶのとなんのかわりもない。そのように理解するしかない。
しかしながら、写真についての見識がかなり高く、幅広い領域にわたって的確な評価を下す能力を持つと認めざるをえないような人物でも、スナップについてのそうした共通認識を共有していることがあるのだが、その事実とスナップは一部の閉じた連中だけの関心事でしかないという上記の理解とが両立しうるということを合理的に説明するのは難しい。さらに、わかる人にはわかるというそのわかる人が随分と大勢いるようなのだ。わからないものというのは多数あるが、わからない理由を納得できればなんの問題もない。しかしジャンルの大半がよくわからず、そのわからなさ具合もわからず、自分以外の人間にはだいたいわかるらしいとなると、どうにも腑に落ちない。世間的な風潮に対して孤立してしまうのはいつものことだが、あまりに多くの相手が間違っているように思われるとき、彼らを敵に回して孤軍奮闘している自分に理があると強弁するよりも、こちらが間違っていて世間様が正しいと認めるほうが論理的に無理がない。能力の欠如なり訓練の不足なり、こちらに非があると折れて、とにかく周囲に合わせたほうが楽だ、といういたって日本的な結論となる。
そうか。そういうことだ。かねてよりその影響力にさらされ続けてきた、その場に合わせよという暗黙の強制、「空気読め」っていうあれだ。要するに展示や写真集の「空気を読む」ということなんだな。和を以て尊しとなす日本伝統の倫理規範の現代的形態が「空気を読む」ことの強要としてゆるぎなく継承されており、写真のジャンルにおいてもこうしたきわめて高度な以心伝心的価値共有の秘術が脈々と息づいている。なるほどスナップの価値を云々する人たちは往々にしてつるんでいる。しかし、「空気読め」と発語されるのは、空気を読めない人間がいてこそであって、日本的な閉鎖的共同体にもそのルールを守れない個体はつきものだったわけだ。そういう個体にとってみれば、どれほど衆目の前で嘲笑され槍玉に挙げられようと、読めないものを読めというのは土台無理な話。そのような能力ははなから欠如しているのである。
読めるものといえば日本語だけ。これは人並みには読めるつもり。もっとも日本語を読むことで銭を貰う職業はつとまらずに廃業したので、人並み以上に読めるかどうかは心許ないけれど。日本語以外に読めるものは何一つない。必要もない。「空気」なんぞ読みようがないだろう。「写真を読む」? どう読めるというのだ。それはスキャナの仕事であって人間がすることではない。「写真を読む」なる言辞は以前からしばしば知識階級のみが行使しうる特別な能力であるかのように抑圧的に振りかざされてきた。「読む」とはどういう意味か。特定の写真に写りこんでいる意味内容や写っていない事実関係に、その写真をとりまいているとされた文脈を説明する根拠を見てとるといった態度は、写真の内容を説明の手段として用いてはいるのだろうが、個別の写真そのものを「読んで」いると果たして言えるのだろうか。文化一般に対するなんらかの主張があって、その主張を都合よく説明できるという観点から選択された写真に当の主張をあてはめてみるといった論じ方は、ずいぶん手前勝手な話なのではないか。絵画のイコノロジカルな分析は、対象となる絵画が特定の文化的背景に属していることが前提となってなりたつはずだが、写真が「読まれる」時、そのような明確な限定がなされたうえで腑分けされているのだろうか。そうした立証なしに個々の写真から文化的特徴をとりだしてその写真の文化的背景を説明しても、何も示したことになっていないのではないか。
他人はどうだか知らないが、ことばによってはっきりと書いてあること、読むことができるのはこれだけだ。写真とはまず見るものである。適切な手段で提示された写真であれば、制作者の意図は直截に理解できる、あるいは少なくとも理解できる可能性がある。しかしその背後か前景か上か下か右か左か、どこかに制作者の意図を超えた仕掛を仮構した時点で、その「深読み」は眼前の写真を離れているとしか考えられない。その深読みが「読むに耐える」のであれば、それはそれで価値を認めるにやぶさかではないけれど。
写真を教わるなどということはまったく経験がないが、教育現場で行われているのは「写真を読む」という態度で写真を理解し処理するためのコード体系の伝授と、個別の写真をそのコード体系に位置づける訓練なのだろうか。展示の会場で折にふれ聞こえてくるのは、二頭の犬が互いの後をぐるぐるまわっているように、どのコード体系の流派に属しているのかを相互確認しあう様子である。場の空気、その場とは対面する相手との関係だったりどこかにあるだろうジャンルの村だったりするのだろうが、そうしたさまざまな階層の場の空気を巧みに読みながら解釈のルールをそのつどすりあわせているのだろう。自分にとっておよそ最も遠い資質である。道理でわからないわけだ。あきらめるしかあるまい。スナップがどうこうどころではなく、ものごころついて以来どうあがいても獲得できなかった能力の問題なのだから。
カテゴリー制を導入してから被アンテナ登録数が激減したようだ。導入直前と比較したわけではないし、はっきりした原因はわからないけれど、上と同様の憎まれ口を過去の日誌のあちこちでまき散らしているのを、カテゴリーで検索しやすくなったこともあるかもしれない。思ったことを率直に言って嫌われるのは、ネット上に限らないし今にはじまったことでもない。
ジャンクホルダ、さんざん探して見つからなかったが、なんのことはない通路においてあるいすの上にあった。まったくどうかしている。