スキャン+レタッチは遅々としてはかどらず。スポッティングの途中でニュートンリングに気づくというのが立てつづけにあり投げ出したくなってくる。もともとスキャンなりモニタ上でのフォトレタッチというのは工程の中でも一番味気なく、これなら暗室の引き伸ばしのほうがよほど楽しいのだが、展示目的でもないとなればつまらなさもひとしお。スキャナのノイズをごまかすのはもういい加減うんざり。
しかしネガを拡大してじっくり見ていくと発見はあって、意外によく写っている。これまでこの箱で撮影した写真をやれ低画質だジャンクだガラクタだローファイだとさんざ腐してきたが、見ようによってはそうでもないかもという気がしてきた。発色は確かにさえないし、カブリのためコントラストは低くヌケが悪く、分解能は低くシャープネスは劣悪なのだが、このシャープネスの悪さをモニタ上でよくよく観察してみると、輪郭が背景にとけこんでいくような滲みかたをしていて、このえもいわれぬなめらかさは、ボケがきれいとかいわれているそこらのレンズにまねできるようなものではないように思う。それにピンホールによる投影像は完全無収差である。フィルム上に得られる画像には、フィルムのたわみによる平面性の悪化があるので、歪み曲がりがゼロとはいいきれない。そういえば先日フジヤのジャンク館でFidelityかLiscoの4x5ホルダを改造したRW吸着ホルダを見つけた。これを使えば平面性の向上が期待できるが、片面しか使えないので同等荷重の場合の撮影可能枚数が半分になってしまうしジャンクなのに1枚1000円。しかもポンプがセットされておらず新品で買ってまで使う気はしないので見送り。それはともかく、結像系として見る限りはザイデルの5収差も色収差も原理的に発生しない。しかもすべての像倍率においてこれがなりたつ。さらには、焦点距離を変更した場合でも無収差であることには変わりがない。この観点からすれば、どれほどの予算をつぎ込んでどのように収差補正を施したレンズであっても決して到達できない最高品質の結像デバイスととらえることもできる。1cm角程度の銅箔と百均で買った27本セットの縫い針とサンドペーパーで作った、直接原価はタダ同然のこんなものが、いかなる高額なレンズをも凌駕するというのはたいへん痛快である。
ピンホールによる結像はピントが合うとか外れるということから無縁であるというのも、われわれが日常経験する世界知覚での奥行き把握に近似しているように思う。われわれは通常、レンズのボケを生かしたポートレイトのようにはものを見ない。われわれの視野の中には水晶体の焦点が合っていない部分が当然あるわけだが、視野の中心、つまり注視している部分には通常は目の焦点が合っているものであり、視野内で目の焦点が合っていない部分を注視することはあまりないからである。もちろん、幼少期の遊びとして視野の中心から焦点を外してみるということをたまに行ったりもするものだが、視覚的生活全体のなかではごく例外的な局面と考えていいだろう。肉眼での対象の観察において、視野の中心を動かしてそのつど焦点を合わせながら収集した視覚情報を総合的に処理することで得られる知覚と通じる部分が、ピンホールで得られる再現にはあると考えることができ、レンズによる像よりも見ようによっては再現として優位にあるともいえるのである。
とはいえピンホールで現代のレンズのような高忠実度の空間周波数変換特性を実現するのはどだい無理であって、一般にはその画像がどこか古くさくて懐かしさを想起させるのは確かである。それがピンホール写真に特徴的な傾向だともいえるのだが、そうした雰囲気に寄りかかってしまっては凡百のピンホール写真やロモ写真と同列になってしまう。ピンホールを使えば泣ける雰囲気をたやすく演出できるのだろうが、そんなものはお涙頂戴の三文芝居並に安っぽいし、だいたい誰にだってできる。最近ピンホールを使う人々がしばしば口にするのは、現在の「写りすぎる」カメラへの反発というようなことであるが、それでは単なる懐古趣味に根ざした退行でしかない。ここでピンホールを使う目的は先祖帰りなどとは正反対であって、極力「よく写る」ようにし、懐古臭を排除し、そのことでピンホールによる結像固有の描画特性をいっそう発揮させることがめざされている。