人が本を読まなくなった。かの世界では話の前提になっている現状認識だが、そんなことはまったくない。明治期以前を考えれば識字率は比較にならないし、全人口に占める教養書や専門書の購読者比率も圧倒的に高い。3、40年前にくらべればそういった本が売れなくなったかもしれないが、それはアカデミズムや文化的エリートなるものが神通力を発揮できたその時代が例外的だったというだけのことで、元来少数の人間が独占していた情報を現在の大多数がほしがらないからといって、別に大多数の知的水準が低下したわけではなく、もともと必要がないのであるから憂えるにはあたらない。
どのジャンルでも世界的スターが出ないとか誰でも知ってる天才がいないとか細分化されたとかたこつぼだとか言ってるわけだが、19世紀以前には全世界に名を知られた人間などいなかったはず。今のほうが自然なのだ。もとに戻っただけ。前世紀が特殊だった。それ以前はみな村落共同体の関心の範囲内でしか情報を得ていなかったのであって、結果としてぐるっと回ってそこに帰りついたというわけ。多くの人が同じ関心を共有しているかのような幻想はもはや通用しないということだ。
自分はピカソになれるか、ウォーホルになれるか、「世界美術全集」に名を残せるか、と真剣に考えている人々には気の毒だが、ピカソもウォーホルもそうした一時的な条件下でのみ発生しえた現象だったのであって、もうそんなものが出てくる余地はない。「世界美術全集」とかいう代物もすたれていくだろう。それが必要とされまた可能であったあらゆる理由が消失することによって。
かつて西武資本の手先となり信越の冬の風物詩であったが今なお「エバンス」とかなんとかで生きながらえているらしい歌手曰く「最後は自分との戦いよね。昔の自分と競うことになる。どうやって自分を飽きさせないでやっていくか。クリエイターってみんなそうじゃない」。ほとんど同じものを微妙に変えて常連客に消費させるという、見ようによってはシジフォス的ともいえる労働に飽きてしまいそうな自分との戦い、飽きないように自分を作りかえるという戦い。という蔑視もハイアートの流儀であって、資本主義の商品であろうとも、20世紀的なるものに突き動かされているという運動原理は現代美術と何ら変わるところはない。