一昨日の続き。
知性には2つのタイプがある。アーカイヴ型とコンピュータ型と。一方では知識の蓄積量と系統立った整理、検索や類縁化の性能が求められ、もう一方では論理的演算の速度と正確さが評価される。むろんいずれも他方の性格を有しているが、モデルとしてそのようにわけることはできるだろう。人文科学ではアーカイヴ型の傾向が強い。
幼少時よりものごとを憶えるのが嫌いで、少なくとも受験段階までは暗記科目に分類されるような歴史や語学をずっと馬鹿にしており、逆に数学や物理といったほとんどものを憶える必要がなく、表向きはその場で考えることによって答えを導き出すような科目を是とし、また得意だと思っていた。そのためコンピュータ型であると自任していたわけだが、あとから考えるとずばぬけて数学の素質があったわけでもなく、他よりは好きだという程度に過ぎなかった。論理的かつ明晰にものを考えようとする姿勢は身についているものの、演算の速度も精度もさほど秀でているというほどではない。そう思いたかったというだけのこと。そこで自分のとりえは何だろうと考えたときに、他人の思いつかないようなへんてこなことを考える能力、手でものをいじって何かを作り出す能力、くらいしかないのだが、それが何になぞらえられるのかがずっとわからなかった。
言ってみればそれが、工作機械型、産業ロボット型、ということになるのだろうか。だいぶすわりが悪いのだが。
確かに、手を動かしていないと何もできない。黙って人の話を聞くといったことは苦手。じっと座って読書などできないし、音楽を聴いてても集中できない。ところがみずから手を動かす作業だと長時間没頭できる。出力機型か。どうやら「知性のモデル」にわりこませようとするところに無理があるらしい。ともあれ自分が記憶力に長けていないのは確か。
こないだの賃労働の書籍に、音楽とは時間芸術であるだけでなく記憶の芸術であるという示唆があった。テキストであれ舞台上であれたいていの制作物は記憶という土台の上になりたっている。ひとり平面だけが、記憶に頼らずに受容されるという可能性から無縁ではない分野である。建築であれ彫刻であれ、立体は一瞬にして全貌を見ることができない限り記憶への依存から自由ではない。
ひとはなぜ新しいものを求めるのか。答えは簡単、飽きるからだ。それはすべて記憶の問題に帰着させていい。近代以降の芸術史的意識の肥大と史的所産のアーカイヴ化が諸ジャンルの袋小路を招いたのであれば、記憶ぬきでも見ることができるのかもしれない平面は、がんじがらめの美術史からぬけだす糸口を持つのではないか。コンテクストを離れてものを見ることはできないというのが常識のようになっている。ならばアルツハイマー病の患者には絵画はどのように見えるのか。健忘症的美術の可能性がどこかにあるのではないか。