新しさの追求をもうやめようとしたポストモダニズムさえ、ひとつの新奇な意匠としてしゃぶりつくしてしまうほどの新しさへの執着。ポストモダニズムのひとつの傾向として歴史の参照があり、文脈をおきかえることで過去の所産を違うしかたで見せようとしたわけだが、過去を元ネタにしてはいても、やはりそれまでにない何かを示そうとしている点で、新しくあらねばならぬという強迫観念からは自由ではなく、ただの流行として使い捨てられてしまう原因を、本来の出発点からははずれていたとはいえ、内部に抱えこんでいたのだった。そしてまた、新しさへの執着を克服するために過去の再利用を持ち出すことにおいて、やはりアーカイヴに依拠し、歴史性と記憶とに囚われていた。
先人の遺物がそこら中を占拠していって、あとから来る者の居場所はどんどんなくなっていく。
われわれは人格を維持するために忘却を必要としている。日々のできごとの記憶とそれらへの感情を忘れられなくなったら、ひとはその重みに耐えきれずいずれ圧死する。個体としてそうであるだけでなく、共同体の記憶集積庫としてのアーカイヴにも更新が加えられるべきではないか。天災、戦禍、紙なり記録媒体といったメディウムの劣化、紛失、盗難、こういったことによってアーカイヴの内容は否応なく入れ替わっていくし、本来アーカイヴとはそうしたものであったはずだ。現にそこらの図書館では新刊を受けいれるために蔵書を容赦なく処分している。もっともあれは図書館とは名ばかりの公共貸本屋なのかもしれないが。収蔵されたすべてのものを未来永劫にわたって保存継承することをよしとする理念が、今後のわれわれを窮屈にする。過去に縛られてちゃ先に進めないのだ。とはいえ「先」とか「進む」というのがすでにして進歩史観を引きずっているのだが。
とにかく、忘れるというのはだいじなことだ。選択的に忘れる、ということだが。必要のないもの、どうでもいいものは捨てていく。他人の仕事などもともと関心ないのだし、さっさとポイ。写真史なんぞのガラクタはまっさきにお払い箱だ。生産活動を続けるか古いものをだいじにとっておくかどっちかにしろということだ。どちらも欲張るのは排泄しないで食べつづけるようなもの。周期が長くはなったとはいえ個体はたえずいれかわっていくというのに、共同体の記憶ばかりが肥大していくのはいかにも不自然だろう。