盛り場に行けば中古カメラ屋に寄り、Yahooの出品を毎日チェックするという近年の行動様式は機材収集者と何ら変わるところはない。彼らにも二通りあって、カメラボディを愛翫する連中とレンズに執着する手合いとがいる。レンズを敬う一派が信奉するのが「写真はレンズで決まる」とかいうメーカーの宣伝文句。一見すると「写真がレンズで決まるわけがない」と考えかねないところはある。対象の結像を撮影する一般的な写真にあっては、レンズがなければ何もできないのは確かだといえども、レンズだけで写真ができるわけでもない。写真の画質はレンズの性能のみによって決定されるわけではなく、フィルムやプリントなどの後処理に左右される部分のほうがはるかに大きいし、第一、画質なんぞよりもずっと大事なはずの写真の内容には、レンズの焦点距離といった仕様はともかくとして、レンズの描写のよしあしなど何ら関わりがない、と片づけてしまうのも無理はない。しかしながら、あいもかわらず花鳥風月や名所旧跡を撮影して倦まないレンズコレクターの関心は、何とか岳やらどこそこ原といった撮影対象自体よりもレンズの「描写力」やら「鮮鋭度」やら「味」のほうにあるのであって、みずからの機材の性能を遺憾なく発揮させるための媒体として同じ場所で撮影を延々と繰り返していると考えたほうが無理がない。通常ならば他人とかわりばえのしない対象を撮っていれば飽きそうなものだが、機材の比較なのだから同一対象のほうがいい。レンズを使うということが彼らにとっての写真撮影という行為の動機であり出発点である。試すべきレンズがなければ写真はなりたたないし、「このレンズの持ち味をいかすシーンは何か」といった雑誌記事のお題目に示されるように、まずレンズがあって、その特性に合わせて撮影内容を後から考えるという手順が推奨されることとなる。つまりそこでは写真がレンズによって決定づけられているのである。
彼ら、カメラメーカーの謳い文句を鵜呑みにした消費者が大枚をはたいてきたことによってカメラメーカー関連各社がずっと存続してこられたのだし、彼らの貢献によって日本のカメラ産業がここまで発展し、われわれもその恩恵を受けて、社会的身分からすれば不相応な最高級の写真機材をその性能に比してずいぶんと安い代価で――新品も中古品も別の意味で――入手できているわけだから、そうした、レンズの描写性能のほうから規定される写真というべきジャンルをあながち嗤うことはできない。
そして、今なそうとしているのは、まさしくそのような道具先行の写真であり、ある種のレンズが空間を平面上の結像に変換するに際して呈する現象を最も顕著に示すためにはどのような対象をどのように扱うのが効果的か、という課題のもとでの制作である。そうした意味で「レンズによって決定された写真」といってよいであろう。上記の人々と違うのは、これを明確な意図と目的を持って自覚的に実行するという一点のみである。ただの機材と技術のデモンストレーションに過ぎない、という反応があるだろうことはだいぶ以前からおりこみずみ。技術的な課題を、他から借り受けた主題性の下支えなしに、意識的に徹底しておしすすめた人間はいないはず。完遂できるのかどうかはわからないけれど。
こういうつくりかた、よりふさわしくは組み立てかた、これが向いているのだろう。筋道立てて考えていくことができ、ものごとを明瞭な根拠のもとに決定することができるからだ。写真に限らず、技術的な問題に関心があるのは、制作されたものを見るうえで、技術的に実際の制作方法を追っていくことが、なぜこうなっているのか、どうしてこうする必要があったか、ということを論理的に解明する糸口となるがゆえである。ここで何度となく使ってきた10年来の標語、明確で現実的で実証的、という姿勢に通じるものでもある。これは思弁的で曖昧で深読みだらけの批評、特に10数年前の批評のスタイルに対する反発から涵養してきた態度でもあるが、当時その路線を商品化しようとする試みはあえなく頓挫したし、茫漠とした情感と微温的な居心地のよさととらえどころのない物語性らしきものを漂わせる今どきの写真の中心的傾向ともあいかわらずなじまないようだ。よすがは合理性だけ、カメラのみならずプリントに至る写真というシステムの合理性だけだ。