技術に依存している写真というものがある。今やっている写真も写真技術に依存しているし、そもそもどんな写真であれ機材なり感材なり工業製品なしではなりたたないという点では技術に依存しているのだが、ここで言っているのは精神的に依存しているということである。技術に頼っている、あるいはすがっているといってもいい。古典印画法をあたかも秘術のごとく崇拝する人々、ゾーンシステムの教条的信奉者、はたまたデジタルであることをことさらに振りかざす一派、彼らに共通しているのは、写真の内容を写真技術が保証してくれる、あるいは写真の内容を技術が変革してくれる、といった素朴で楽観的な信憑である。ここでやろうとしていることも写真技術を最大の関心の対象としており、写真の内容を技術的関心で埋め尽くせるものならやりかねないほどではある。しかしそれは、写真というメディウムを反省的に吟味しようと意識的にそのような立場をとっているのであって、そうした制御もなくベタに写真技術に溺れてしまっては話にならない。そこらのカメラマニアやレンズコレクターと同じことになってしまう。
もともと写真をやろうという人間の相当数にはコレクターの資質が多分にある。ある人の指摘によると、ドイツでのベッヒャーの回顧展では、とにかくただひたすらあの給水塔ばかりが延々と続いていて、批評家たちがひところ並べてたような思弁的な御託は何の関係もなくて、コレクターであることが如実に浮かび上がっていたという。10数年前にはタイポロジーエピゴーネンがやたらと出回っていたものだが、当時から彼らはすべて単なるコレクターであると見なしていた。所有せずに物を収集したければ、写真とは格好の手段である。そのための道具そのものが収集の対象になるのも自然ななりゆきというものだ。タイポロジーとか称する収集癖に堕すことのないよう銘記しなければならない。そしてなんであれ物とか型とか技法に頼っているようでは先行き暗い。論旨がずれてきたのでおしまい。