レンズ改造の図面引き。これもものを作っているという実感は薄い。実際にものを手で扱うことによってのみ現場にいるという手応えが得られるということだろうか。「手で考える」というのとも違うような気がする。AdobeIllustrator上でただ延々とコントロールポイントを動かし続ける作業。とはいえ、とにかく考えることを強いられる。図面上から立体の部品を出現させ、複数の部品を組みたて、動作させる。次々に不具合に直面し、修正し、また組みたてる。これを頭の中で繰りかえし繰りかえしおこなっていく。
考えた結果を発注して具現化することで形として見ることができ、考えの正否は明瞭に検証できる、というより行き届かない点を否応なく突きつけられることになる。そうならないように、文字通りあらゆる角度から吟味しつづける。これがものを考えるということだと如実に感じる。図形的思考力はほかの能力に比べればましなほうなので苦にならないということもあるのだろうが、それだけではなく、考えることが現実のものに裏づけられており、筋道立てて考えた結果が正しければ間違いなく成功し、うまくいかなければ必ず原因がある、そのことによって考えることにハリがもたらされるように思える。
各部の整合性をとっていく作業は、たとえば一本の論攷で論旨のほころびをとりつくろうような辻褄合わせのうさんくささとは別物である。レトリックや言いかえでうまくごまかせるようないい加減なものではない。たとえ図面を通してのやりとりでは誤解が生じうるにしても、意図通り削りあげられているならばアルミブロックには解釈の差など微塵も存在しようがない。計算違いがあれば、部品がうまくかみあわないといった事態となって容赦なく露呈する。
グラフィックデザインと一見したところの操作はさほど変わらないのだが、向かう先がまったく異なる。デザインであれば通常は他人の評価、それも主観的な評価の総体というえたいの知れないものが終着点とならざるをえないのだが、こちらは動作と加工適性と組上がりの整合性という完全に自律的で客観的な指標が、少なくとも当座は目的となる。そして、小さなものではあるけれども、おそらく先行者はひとりもおらず自分ですべての障害を克服しなければならないということが、考えにツヤを与えてくれる。生業を誤っただろうか。
思い通りに動作したからといって、それはあたりまえのことであって、それによってもたらされるのがどんなものであるかは今のところ見当もつかず、コストと時間をかけて得られたのはさしたる効果なしという結論だけなのかもしれないのだが、それでもこれを措いてほかに今なすべきはない。