ピンホールは光学系とみなしてよさそうだ。物点から拡散した光線が、ピンホールを通して収束も発散も行なれわずに光線束として整序され、物点からピンホールをはさんで反対側の投影面の共役点の位置にピンホールと同じ径で投影された点像、その集合が対象像となる。ピンホールと同じサイズの光点の集合であるからそれ以上の分解能はなく、実際には回折によって光点の輪郭がにじむことでそれ以下の分解能になる。屈折光学系も反射光学系ももたずに光の直進性によって像を得る特殊な光学系と見なしていいのではないか。したがってピンホールによる投影像は結像と考えることができる。いや本格的に調べたわけではなく用語の理解についてはずれているかもしれないけれど。
ここからが本題。写真とは対象の再現ではない。では何か。写真とは一般に対象の結像の再現である。一般に、というのは、フォトグラムや光によるペインティングといった、光学系を介さずに印画面に直接露光させる方式の写真は、ここでの論旨からは除外するということである。写真において再現されているのは、対象からの反射光・放射光・透過光などの、対象の周囲一面に広く発散する光線のなかから、光学系によって選択され、感光面なり固体撮像素子上に投影された「対象の結像」なのである。インデックス性がどうとかいうおきまりの議論が決定的に見誤っている点がここだ。一般のカメラで撮影される写真とは、レンズによる結像を化学的ないし電気的に記録しているだけであり、結像との類似関係はなりたつが、対象とは直接の関係を持たない。ならば、対象の再現と対象の結像の再現とはどこが異なるのか。写真は結像を介して対象の再現であり、対象と類似関係にある、とはなぜいえないのか。それは、結像とは光学系によって得られるものであり、原理的に特定の一つの視点における像でしかないからである。
写真上の像が対象と似ているというのは、ごく限られた条件下においてのみなりたつ。人から無造作に手渡された写真を、そこに写っている対象と見まちがうということは通常考えにくい。そんなのはただの紙切れで、横から見れば薄っぺらいだけだし、裏から見れば白いだけ。写真が当の対象と似て見えるのは、写真が撮影されたのと同じ向き、つまり同じ天地の関係で、正面から、画面の中心を見る、つまり写真が撮影されたのと同じ条件で見せられたときだけである。窓を通して写真を見るような視点を固定する見方を強制してはじめて、実際の風景と見まがうといったように、写真は対象と似たものとなる。照度や距離も含めて、そうした提示のしかたに依拠してようやくなりたつ程度の相似性しかないのである。それは絵画もそうだし、いわゆる映像でも同じことだ。
写真は単一の視点での結像の反映でしかない。これがあたかも対象の複製であるかのように、あるいは対象についてのわれわれの知覚の複製であるかのように考えるのは、対象の知覚を一点からの視覚像と見なしていることから来る錯誤である。それは元来絵画や写真から得られた対象の認識様式であるのだが、それが知覚の本来的な様式であるかのごとくにすりかえ、写真がそれに似ているという。似ているのはあたりまえだ。元が一緒なのだから。
写真が似ているのは、われわれの視覚におけるある一瞬の対象像である。単一の視点上で色覚細胞上に結像された対象の像というものを仮想するならば、それは写真での対象との類似性を云々できるものだろう。しかしわれわれの対象についての知覚をそのような一種の画像に還元するのは無理がある。われわれの世界認識はそんな平板なものではない。
われわれは対象を奥行きのある立体として把握している。それは透視図法に則った平面図に奥行き情報を与えていわば水で戻したように理解するのではなく、もともと、どこから見ても量感のある何ものか、としてとらえている。でなければものを摑むことなどできない。対象の再現なり模像としては、写真よりも、ホログラム、あるいは3Dデータからのモックアップのほうがよほどふさわしい。ホログラムとは、写真がその一部しか記録できない、「対象の周囲一面に広く発散する光線」を、単波長とはいえすべて記録しようとするメディウムであるから、解像力が向上すれば対象そのものの全的な視覚情報を再現するという事態に近似することが可能である。3Dデータも、記録・加工精度次第では元の対象と同様の外形の物体を生成させることができる。それらは多視点的な観察を通じて写真と違って対象と「似ている」ととらえられるはずだ。形成過程においては多視点的な視覚像の総体からそのような把握を得るのだが、ある物体をあらゆる角度から撮影した二次元画像の集積が三次元データになるには飛躍が必要なように、多くの視点の写真がたくさん集まれば対象の知覚と等価になれるというものではない。とはいえ、キュビスムの多視点的絵画はわれわれの視覚の構造に対する大いなる示唆として有効であった。その後キュビスム的対象把握が廃れ写真や映画が単一視点的世界認識を地固めしたのは退行といってもいい。視差を使用した立体写真は、左右の目にそれぞれ単一の視点からの画像をあてがっているにすぎず、立体感が得られるという点以外は一般の写真と変わらない。
この観点からすると、巷間での写真についての説話における「立体の平面化」といった常套句は、字義通りにとらえるならば、三次元的広がりが二次元上に投影されるというごく当たり前の話で、とりたてて論ずるにもあたらない。ただ、対象そのものについての直接的把握と、その対象に由来したはずのうすっぺらな色の配置が与える視覚的印象とあいだの齟齬といったふうに解釈することもでき、その点では上記の事情を反映しているといえる。
酩酊につき続きは後日。たぶん。