朝から特快晴、のなか16時間寝たきり。遠方の空はけぶっている。そろそろそんな季節か。
やっと遮光板をスーパーXで固定し、品川。海岸通りを南へ。約1年前、この趣旨の原型をはじめた頃から、都庁など誰もが一目でわかる対象を念頭に置いていたのだが、そんなわかりやすさや効果的な演出といったものがどうでもよくなってきた。612ではあの構成をよりよく活かすのはどんな対象かということが最大の関心事だったわけだが、その行きつく先は大向こう受け狙いということになるし、しかも実際には小向こうでしかなく、対外的な評価への配慮を優先するのはほんとにむなしい。612でやったことを否定するつもりは毛頭ないし、機材が揃ってもっと遠くでああいう動きかたができる機会があったらぜひまたやりたいと思う。しかし、この4X5では関心を惹くものを率直に撮影していこうと思う。ランドマークを追っていくと、その周辺一帯から見えるものであるだけに、その対象が済めば付近は終わった、という扱いになってしまう。しかしそれほど目立たない対象も丹念に見ていくと、今日のルートでも、すぐ近くは以前に歩いたけれど海岸通りははじめてなので新鮮な印象がある。ランドマークでなくてよかったのだ。どこにでもありそうな小さな建物でいいんだ。そう思えるようになるとにわかに行動すべき範囲が広がる。首都圏もめぼしい駅はだいたい踏破していてやりつくした感があったのだが、これでやりなおしが可能になる。またカメラにものの見かたを教わった気分。高層建築を撮影するために向かいの建物の階上に上がらざるをえないかとも考えたが、背が低ければ地上からで充分。やっぱり地面は落ちついていい。高いところはスースーしていかん。
昭和橋前のNE*C。エボニーから大ネジ小ネジアダプターをはずしてきたのでやっとジッツオ自由雲台が使える。この用途には3ウェイ雲台より使いやすい。真俯瞰用に買った雲台だが、逆に見れば仰角用にもいいわけだ。なるほど。3ウェイ雲台というのは3方向独立して調整できるので水平出しがしやすいのだが、パーン棒が手前に張りだしていて胸につっかえるので実はあまり使いやすくない、というのをようやく思いだした。15時、EV15.1。2s。昨日は忘れていたが、ついに覆い露光の暴挙に出る。黒ケント紙でも持っていくつもりだったが忘れたので冠布を使おうと思って露出をはじめ、ふと気がつくと左手に引きぶたを持っているではないか。黒いし直線は出ているし露光中は手をふさぐだけの邪魔者。こいつを有効利用しない手はない。トヨの引きぶたは光沢があるけど下に向ければ光らないし、幅は狭いが近づければ間に合うだろう。被写界深度というものがないのでバンディング状になる懸念はあるが、2sも動かしてればぼけるだろう。そこで穴の前でゆらゆら動かす。はたから見れば怪しいおまじない。こんな荒技は聞いたこともない。普通はプリント中に覆い焼きするなりでいいし、後工程で処理したほうが安全だし確実、ポジならグラデーションフィルターでも使えばいいわけで、撮影中にやるバカなんぞいないだろう。合目的性を追求すると珍妙な行為にいたるの図。遮光板や露出や覆い露光など不安要素はたくさんあるが、おさえのカットを撮るのももったいないので1枚だけで終了。
ようやくこいつのしくみがつかめてきた。一眼レフカメラをはじめて手にして、焦点距離と画面の関係といったしくみがだんだんわかってくるという段階に近い。よく、なんにつけそのくらいの時期がいちばん楽しいのだ、などと訳知り顔に語りたがる手合いがいるが、そのさなかにいる当事者にしてみれば、もどかしかったり時間が惜しかったり、あまりにその段階が長すぎるとただもう疲れはてて望みもとぎれかけ、だったりするもの。
湾岸道路で城南島、昭和島、平和島。たぶん撮影したネガはまだテストどまりだけれど、充実した気分。ふと、ほとんど何もしていないのに何ごとかをしたような気になっていていいのか、との思いがまたぞろ首をもたげかけるが、ハナバナシクご活躍なさっている人とわが身を比較してもしょうがない。なんでもいいじゃないか。他人なんてどうでもいい。そういえば一昨日2人と話していて、ほかの2人がハヤリ筋のアートやら映画の話で盛りあがるにまかせてもくもくと食べていたら、ときどき意見を求められ、ことごとく「どうでもいい」を連発していた。どうでもいい、が口癖になりつつある。まだやっかみもいくぶん残っているけれど、この分なら遠からずそれも消えるだろう。ま、どうでもいいが。
大森から帰投。駅のホームで、自由雲台の上面を手のひらにあてて立つと、以前の感触がただちによみがえってくる。これだ、この支えかた、この持ちかた。10年近く、時期によっては毎日持ちあるいた道具の扱いは、数年ブランクがあってもしっかり覚えていた。思えばずっと、たいがいはなんの収穫もなく、カメラをとりだすことさえなく、ただ行脚のように日々ほっつき歩いていたわけで、成果に乏しいのは昔から。でも、今度は、いいなと思ったら素直に撮影できる。これはずいぶん長らく遠ざかっていた、ことによると意識的に写真を撮りだしてからずっと忌避してきた態度だろう。単純にいいというだけでは撮影してはいけない、もはや写真の黄金期のようなおおらかな写真をやる余地は残されていない、という足枷をはめられているわけだ。しかしこのカメラを使いさえすれば、素直に光景に臨むことができる、関心を惹く対象に正面から向きあえるようになる。たとえ結果がおよそ素直さからは程遠いにしても、むしろそのことによって、素朴な感興を抑えこまず直截に写真へ結びつけるということへの抵抗が解除される。……といいのだけど。